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終わらない世界で

さて、noteを更新しようしようと思っていて9月がすぎた。2ヶ月半も放置してしまった。
仕事に根を詰めるのはいいことなのかもしれないが、趣味の時間が削がれているようですこし物悲しい秋の入り口。
アンサーのような物語を書いてみようと思う。


「夢は簡単ね」
夢。彼の人が言った夢。夢はたしかに簡単だろう。現実とは違う。自分をいくらでも着飾れるし世界をいくらでも確変できる。

「私ね、思うのよ。夢は被害者思考なのかなって」
「と言うと?」
「夢を持つ。それはいいことだと思うのね?だけれど、夢を見る。それは現実を加害者にした被害者意識による産物だと思うの」

言われて納得してしまう節がある。一理ある。現実に疲れた。現実に嫌気がさした。そんな有り体な詭弁で自分を愚弄して、愚行に走って、幻想を幻想と割り切らずに煮えきらずに抑えきれずに昇華する産物が夢だと言いたいのだろう。

「その理論で行くならば、夢見がちな少年少女たちの存在意義は現実逃避となるのか?」
「うん。そうね。現実から逃げることを主として生きている」

なるほどねと僕は首を立てる。

「だって、夢は永遠だって言うじゃない?終わりがないの。でもそんなことはありえないわ。始まりがあるならば終わりはある。どんなことだってそうだと思うのだけれど」
「まぁ、物理学的にはそうだな」
「いえ、ちがうわ。精神的に、よ」

またもなるほどと口をつく。夢に憧れ夢に浸る。その行為にはいつか終わりが来る。生が終わる。一生が終わる。人が終わる。少なくとも人としての形を残さずに。
夢を見ることにも終わりが来るけれど、それ以前に夢事態にも終わりが来ると言いたいのだろう。
だからこそ、冒頭の被害者意識と言いたいのだ。
夢に被れる人々は、現実に理由をこじつけて自分の責任を逃れたいとでも言いたげだ。でも反論することは出来ない。なぜならその通りだからだ。
僕は何もしていない。私は何も悪くない。そう自分を信じて打開できる状況を鑑みずに夢に浸り無いものをあると信じて、無いことを視認したらまるでそれは現実が悪いとこじつける。そしてあったならばこうだったと自分の思った通りのifの世界を赤裸々とばかりに恥知らずに語り出すというのだ。

仮定にもなっていないのに。

「私は現実から逃げる人間が嫌いよ。だって責任から逃げているんだもの。自分が負うべき真っ当な理由を現実のせいにしてまるで逃避行、チーズに穴を開けるネズミのように小賢しく愚論を弄するんだわ。あるものをないとしてないものをあるとする。そんなこと許されていいはずないじゃない。そんな偽物は」

彼女は往々にして正しい。正しくて諭しい。真理に次ぐ正論だ。

しかし、でも、だからといって。信じないから嘘である。偽物であるという結論はいくらか早考では無いだろうか。

「だとするならば、君は神は信じないと?」

「どうしたのいきなり。あなたは宗教勧誘のおばあさんかしら」

「茶化すな」

「えぇそうね。どうしてもというのであれば、私は髪は信じないわ。それは物理とは関係ない。ただ、信じるならばそこにいる。信じなければそこにはいない。どこにでもいてどこにもいない。そんな存在に頼るほど落ちぶれていないもの」

「なるほどね。君はそういう人なのさ。だから夢とは分かり合えない。酷いリアリズムに犯されているのさ」

「えぇ。そうよ。わたしはあなたみたいな人が大っ嫌いだわ」

踵を返す。リノリウムの床が主張を遠ざける。

「夢は終わらない。だけれどそれは嘘だ。だがそれが嘘ならば、夢は嘘だ。消して現実ではないし、真実でもない。そこに縋るのは愚かで弱くてどうしようも無いことだろう」

「だけれど、僕はそこまで正しい人もそれはそれでどうしようもなく弱くて、現実に縋っているように見えてしまう。自分で責任を負えばそれでいいかのように。どんな物事も責任で片付いてしまう現実をまざまざと見せつけるが、それはリアリズムであって真理ではない。真実が往々にして現実なんてことも無いのさ」

だからきっと、誰かの夢が、否、妄想が現実を帯びたら。そこはきっと世界の終わりになるのだろう。

吐いた言葉はまたもリノリウムとコンクリートに吸い込まれ、誰もいない鏡に波を立てた。