常識、マナー、ルール、規則。
2020年、令和二年もあけてから早一ヶ月が過ぎ、本格的な冬が訪れんとしている。本当に早いもので、歳を食えば食うほど一年が短く感じられる。
カメラマンという職業上、そろそろ忙しくなりはじめ、確定申告の払い戻しにワクワクしながらシャッターを切る日々になりそうだ。
さて、今回は駄文もいいところなお話しだろう。なぜならそれは究極の自分語りだからである。
今日のお題は常識という概念のお話し。哲学臭くもなってしまうかもしれないが、できるだけ容易に書こう。
まず、常識という物はなぜ明文化されていないのにみんな守らなければいけない、守らなければ教育、教養を疑われるかという切り口から行こう。
学校では残念ながら常識という授業はない。なぜなら常識とは人によって違う、もっと大きくいくならば家庭、地域によって大きく変わっていくために学校で教えようにも正解がなくなってしまう。そんな教科他にはないだろう。
前述でも触れたが、明確な正解がないにもかかわらず明確な不正解はある。例えると、少し遠くの食器に入ったサラダを少し多く食べたい時にお皿を箸で寄せる行為。これはテーブルマナーに反するがマナーの話はいったん置いておき、常識にも反する。しかしサラダは食べたい。この例の正解は一見、サラダを箸で寄せずに体を大きく伸ばし、サラダの入っている大皿を手で持ち上げ、自分の近くに置き直すことかと思われる。しかし常識の面白いところはこれだけが正解ではないことだ。免許の試験のようなひっかけでもあるが、もう一つの正解はサラダを食べないと言うこと。ちゃんと常識に則っている考え方で、暗黙のルールをしっかりと守っている。
常識とは明確な正解のない問いと書いたが、的確な正解が多すぎる問いであるように思える。
後述するが、マナーと言うのは正解がしっかりとわかる。しかし常識というのは誰もが知っているのに誰もしない。ある意味神様の存在のように空虚で実態的な存在だ。
ではその常識を説明する時、子供に教える時にどう教えたらいいのか。これは実に容易な問いである。その正解は「人に不快な思いをさせない」ことが常識なのである。
ではそれと相対してマナーとはなんなのか。
先ほどにも挙げたテーブルマナー。これはマナーを語る上で大きな指標になる。
マナーといえば聞こえは悪く感じかねないが、これは実はドレスコードと同じような物である。
ドレスコードとは、日本で言えば冠婚葬祭や入学式、卒業式がドレスコードのわかりやすい例だ。様式にあった服装というわけだが、これは協調性と大きな関係をもつ。その場にあった服装というのはいわば周りの空気を読むことに等しい。空気を読むというのは協調性のない人間からすれば、水を燃やして湯を沸かせと言われているような物で、至極複雑で難解な物である。
テーブルマナーで言えば、和食は特にテーブルマナーが多く、複雑である。お箸に関するだけで寄せ箸突き箸渡し箸と思いつくだけでも三つ。さらにテーブルに肘をついてはいけない、何かを見ながらご飯を食べてはいけない、膝を立てて食べてはいけないなど、箸関連をおいたら数多にある。いくらか卑屈過ぎやしないかと思うこともあるが、そこは日本。伝統という文字でこのマナーを2000年近く守って来た。
果たしてそこまでしてマナーを守り、一体何がいいのか。
僕は、根元は常識という解釈とにているというか、同じ気がしてしまう。やはり、『同じ空間にいる人に不快な思いをさせない』というのが大きな根元だろう。そこから派生してより美味しく食べれるためだとか、より自然を気遣ってというように付与されていったのだと思う。
決してマナーも常識も日本だけの文化ではないが、日本は多すぎる気がしてしまう。人を幸せにするというよりも、不幸せにしない。そんなことを考えてしまうほどに卑屈な常識、マナーが多く見受けられる。
常識もマナーも、縛られすぎると生活できないなんていう人がいるが、まさしくその通りであり、だからこそ義務教育に教養という授業はないし常識もマナーも学校では教えてくれない。そもそも常識やマナーは矛盾していることも多く、それをやはり授業で教えるべき内容ではないし、教えられる内容でもないだろう。
知り合いにも常識に振り回される人も多い。僕自身あまり協調性という物がなく、集団活動というものができない。その点もあり、僕も常識やマナーにはとても大きく翻弄された。アンダーな世界に入ったこともあり、体で覚えた面が大きい。そういった面では僕は比較的に恵まれている方だろう。しかし小中高と卒業式に出るつもりもないし、一般企業に就職したわけでもないので入社式というものを知らない。しかしもし出るとしたらそれは困難であろう。そのくらい僕自身集団活動が苦手なのだ。ある意味これも常識外の行動であろう。
常識に振り回される人にはある共通する特徴がある。それは常識を自分の中でうまく飲み込めていないというものだ。
僕は前述で常識の定義に触れている。日本人の心情は察しと思いやり。もし日本人の多くが怒るのではなく優しく指摘できる人間になれたらこの国はもっと豊かになり、あらゆるカルチャーがより良い方向に向かうだろうに、自分の正しさを主張したいがために攻撃的な態度をとってしまう。
これをここまで読み終えた親愛なる読者さんには国籍を問わず冊子と思いやりを持って生活して欲しものである。僕自身も、僕と関わる人をもっと幸せにして行きたいと思う。僕と関わる人が少しでも長く笑ってくれることを祈っている。