雨・レクイエム・其の肆
一か月ほどまえ。
東京に名残雪が舞った日、ピアノリサイタルの準備に忙殺されていた和乃のもとへ、一通の手紙が、届いた。差出人は「雪村千春」。知らない名前である。手紙を読んで、和乃は、愕然とした。いまのいままで、和乃は、自分に妹のいることを知らなかった。
妹は、うまれてまもなく、流行病で亡くなり、母は、そのつらさに耐えられず、実家に戻って、その後病死したと、父・敬一郎から聞かされていたからである。
妹が、生きている。和乃にとって、これほどの驚きはなかったが、同時に、これほどの喜びもなかった。リサイタルの準備のため、すぐに、妹の千春が住み込みで働いているという、浅草の洋食屋を訪ねることはできなかったが、時間を調整して、その洋食屋へ出かけたのは、千春が亡くなった日の午後八時すぎだった。
浅草にある洋食屋へゆくと、千春はでかけていて留守だった。主人は、婚約者に会いにでかけたという。行先は聞いていない。
しかし、午前零時をすぎても、千春は戻らなかった。
「いままで、そとで泊ったことはない」
と主人の女房が、心配そうに言った。
和乃は、嫌な予感がした。妹の行先がわかっていれば、和乃は、その場所へ駆け付けたであろう。しかし、行先がわからず、和乃は、大事な妹になにかあっては大変だと思い、主人に警察へ捜索願を出すように言って、急いで自宅にもどると、父に、妹とはいわず、
「雪村千春という友人の捜索願を、出してほしい」
と頼んだ。
父・敬一郎は、警察行政を統括する内務省警保局の官僚である。電話一本で、警視庁の担当係を動かすことができる。
夜明け前、警邏中の巡査が、上野の不忍池で水死体を発見したという連絡が、父のもとへ入った。和乃は、車で、父と一緒に、現場へむかう途中、浅草で、洋食屋の主人を乗せて、不忍池へゆき、冷たくなった妹と、最初で最後の対面をした。和乃は、千春の顔を知らない。洋食屋の主人が、泣きながら、千春を確認した。
警察は、入水自殺だと言った。和乃は、父に、なんどか、千春が実の妹であると言おうとしたが、できなかった。内務官僚の父にも、立場がある。夜更けに、いかがわしい場所を徘徊し、男との別れ話で入水自殺するような、素行の悪い娘を、自分の娘とは認めないであろう。
和乃は、千春からの手紙で、相手が結城精一という、赤坂のダンスホールで働いているダンサーであることを、知っていた。ダンスホールの悪い噂は、友人たちから、和乃も聞いている。結城の正体を、確かめようと思った。千春の死因が入水自殺と言うことにも、疑いを持っていた。
「わたしは、妹からの手紙で、結城と言うダンサーのことを知りました。そして、妹が亡くなって、探偵社に結城の調査を依頼しました」
と、和乃が埜瀬警部に言った。
ピアノリサイタルの準備で、和乃は多忙である。父に、友人から、信頼できる探偵社を教えてほしいと頼まれた、と言って、懇意の探偵社を紹介してもらった。
数日後、和乃は、京橋にある探偵社を訪ねた。そして、結城精一に関する調査を依頼した。探偵社からの調査報告は、毎週一回、日曜日の午前中、リサイタル会場になっている銀座のレストランで受けた。
報告書を読んだ和乃は、結城精一が、どういう人物かを知った。まさにジゴロだった。女性を食い物にする悪人だった。
「千春は、だまされていた」
調査によると、結城精一は、愛人の一人と、金銭のことで口論になったとき、洋食屋の娘のようになりたいかと、口走ったらしい。そのことが、調査報告書に書かれていた。
千春の死は、事故でも自殺でもない。警察は、千春の死を自殺と断定したが、殺害されたのだと、和乃は確信した。
自分とは正反対の、幼いころから、苦労の多い人生を送ってきた妹のことを思うと、和乃は、気が狂いそうだった。自分だけが、恵まれた人生を送ってきたことに、罪の意識さえ感じた。その思いが、和乃に結城への復讐を決意させた。
和乃は、まず、結城に近づくため、リサイタルの準備の合間をみて、赤坂のダンスホールへ通った。和乃のポスターがいたるところに貼りだされ、新聞にも写真が掲載されているので、化粧を厚くして、素顔をわからなくした。服装も、洋装に、つば広のストローハット、右目を髪でかくすヘアスタイル、赤いルージュと、青色のアイシャドウ。おそらく、小文でも、和乃とは気づかないであろう。
店では、結城に、チケットを五十枚単位で渡し、ホールの外で会ったときは、現金を渡した。結城は、和乃の素性を知りたがったが、父親が裏社会の人間だからと、警告した。
そうして、結城と親密になったふりをして、ある夜、和乃は、結城を、上野の不忍池によびだしたのである。待ち合わせ場所は、弁天島へ渡る橋のたもと。妹の千春が、殺害された場所である。結城は、逢引宿での一夜を期待したのであろう。誘いを断らなかった。
「結城の愛人の一人が、お金のことで、言い争いになったとき、お前も、洋食屋の娘のようになりたいか、俺には、伯爵夫人がついているから、警察なんて怖くない、と言ったそうです」
と和乃が言った。
「伯爵夫人が、ついていると言ったのですか?」
埜瀬が訊いた。
これは重大な証言だった。警視庁の保安課では、いま、ダンスホールにおける風俗上の醜聞を捜査中だが、その中心に、ある伯爵夫人の存在があった。その夫人は、結城の愛人の一人だった。
「和乃さん、その伯爵夫人が、結城をそそのかして、千春さんの殺害を指示したという可能性はありませんか?」
埜瀬が訊いた。
「そのことは、調査報告書にありませんでした。しかし、可能性はあると思います。警部さん、わたしが、事件現場に行ったことはまちがいありません。この手で、妹の復讐を遂げるつもりでした。でも、手は下していません」
和乃が、不忍池の待ち合わせ場所に到着したのは、午後十時まえである。約束の時間は、午後十時だった。しかし、三十分をすぎても、結城は現れなかった。日時を間違えたのかと、和乃は思ったという。
長居をして、だれかに顔を見られても困ると思い、和乃が、上野駅のほうへ戻りかけたとき、近くの民家からでてきた浴衣姿の女と、ぶつかりかけた。が、かろうじて、よけた。
「大丈夫、顔は見られていない」
顔は、黒マントの三角頭巾でかくしている。たとえ女だと気づかれても、顔まではわからないはず。和乃は、途中で、返り血を浴びたときのために用意しておいた、着替えをいれた布包みを草むらから取りだし、上野駅前から、人力車に乗った。結城殺害のために準備していた和かみそりは、途中で、川に投げ捨てた。
母の形見であるとんぼの髪飾りを、失くしたことに気づいたのは、帰宅したあとである。
「警部さん、その伯爵夫人のアリバイを調べることはできませんか?」
和乃が聞いた。
「おそらく、知人たちと口裏あわせをして、当夜のアリバイを作っているでしょうね」
その日、龍之介は、麹町で私用を済ませてから、カフェ月殿亭に顔をだした。一番奥のテーブルに、埜瀬警部が座って、珈琲を飲んでいた。
「埜瀬」
龍之介が、テーブルに行って、声をかけた。
「うん」
「新聞は、さんざん、ダンスホール事件を煽っておいて、大山鳴動してねずみ一匹かい? すべての罪を、結城というダンサーに負わせて、事件の幕引きとはね。ダンスホールの風紀上の問題はともかく、違法賭博に関係したものも、だれひとり、召喚はされたが、逮捕されていないじゃないか」
「うん」
「仮に、千春さんを殺害したのが、結城精一だとしよう。君は、いや、警視庁は、結城を、逮捕できたかい?」
「どういう意味だい? 犯人だから、逮捕は当然だろう」
と埜瀬が言った。
「結城の周りには、多くの女性が、はべり、豪勢な生活ぶりだったと聞く。報道によると、結城と関係のあった女性の中には、伯爵夫人、資産家の有閑夫人、大企業の専務夫人などがいた。その女性たちが、夫の影響力を使って、この事件をもみ消そうとしたかもしれない」
龍之介が言った。
「埜瀬、龍さんのいうように、今回の事件で、だれ一人として、逮捕されていないのは、なぜかね?」
友比古が聞いた。
「ダンスホール事件から、違法賭博事件があぶりだされた。内務省にとっては、それで、十分だ。一罰百戒の意味をこめて、上流階級の連中に警告を発すればよかった。だから、だれひとり、召喚はされても、逮捕はされなかったということだろう?」
龍之介が言った。
埜瀬が、そのことに、忸怩(じくじ)たる思いでいることは、龍之介にも友比古にもよく分っている。警視庁の一刑事には、どうにもできない権力の厚い壁が、立ちはだかっていることも。
事件には、華族と言う天皇家につながる伯爵夫人が関与していた。このため、宮内省では、事件を矮小化して、華族への批判を封じるために、内務省経由で警視庁に圧力をかけたのであろう。
「私に、なにができると?」
日頃、温厚で物静かな埜瀬が、珍しく気色ばんだ。
「警察は、結城精一殺害事件の犯人が、和乃さんだと断定したのかい?」
龍之介が聞いた。
「和乃さんは、犯人じゃない」
「では、だれが犯人だと、警察は考えているんだい?」
友比古が聞いた。
「結城の愛人だった伯爵夫人が、結城に結婚をせがむ千春さんの殺害を、結城に命じた。結城は、夫人が共犯であることをネタに、夫人を脅迫しはじめた。夫人は、警察の捜査がすすんで、ダンスホール事件ばかりでなく、違法賭博事件と殺人事件まで抱え込むことになり、口封じの意味をこめて、結城を殺害したと、考えている」
埜瀬が言った。
「にもかかわらず、警察は、伯爵夫人を逮捕できない」
と龍之介が言った。
「物的証拠でも見つかれば別だが」
「政治力学で考えれば、犯人である伯爵夫人を見逃して、状況証拠だけで、事件当夜のアリバイがない和乃さんを、犯人に仕立てるのが、一番手っ取り早い解決策だね。真田敬一郎氏は辞職、和乃さんは、たとえ裁判で、冤罪だと判明しても、逮捕された時点で、彼女のピアニストとしての人生は終わる」
龍之介が言った。
小文たちが、リサイタル会場のレストランに、新しいポスターを貼り、チケットの追加発行ができるようにして、カフェにもどったとき、店内には、龍之介だけだった。
龍之介は、小文たちをオーバルテーブルに集めて、
「千春さんを、入水自殺にみせかけて、殺害したのは結城精一、使嗾したのは、伯爵夫人。そして、結城の口を封じるために、不忍池で、結城を殺害したのも伯爵夫人だと、警察は考えているが、物的証拠がない」
龍之介の言葉を聞いて、小文たちは、おどろいた。
「その伯爵夫人は、逮捕されたんですか?」
咲良が聞いた。
「警察では、事件現場で発見されたとんぼの髪飾りが、和乃さんのものであると特定した。その物的証拠によって、いつでも和乃さんを逮捕できる」
と龍之介が言った。
「それって、和乃さんが、事件現場にいたということですよね」
巴瑠が言った。
「そうだ。和乃さんには、その時刻のアリバイがない。捜査本部は、それだけの理由で、真犯人ではない和乃さんを、犯人に仕立て、真犯人を守ろうとしている」
龍之介が言った。
「龍之介さん、わたしたちは、何をすればいいんですか?」
小文たち五人の思いは、同じだった。
翌日は、大雨だった。未明に降りはじめた雨は、朝になってもやまなかった。
龍之介と小文たち五人は、夜明け前に、事件現場である不忍池に到着していた。龍之介は、ゴムの長合羽にゴム長靴、小文たちは、作務衣の上に雨合羽、男物のゴム長靴、右手に洋傘、左手に懐中電灯という格好である。
雨のせいで、午前七時をすぎても、あたりは暗い。周辺の民家から、出てくる人はいない。上野の山も、雨に烟(けむ)っている。
龍之介たちの探し物は、結城殺害に使用されたと思われる凶器である。犯人は、凶器のかみそり、それが安全カミソリか和かみそりかは不明だが、それを、持ち去った可能性もないではない。あるいは、池に投げ捨てたかもしれない。しかし、もしかして、現場近くの草むらに投げ捨てたかもしれないという可能性に、龍之介は賭けた。凶器がみつからなければ、和乃のピアニスト生命は、終わるだろう。
龍之介は、事件直後に、玉喜が描いた現場周辺の詳細な地図を六枚用意して、各自に渡した。だれが、どこを、どう探すのかを、全員で検討し、分担を決めたのである。捜索範囲は広い。犯人の逃走ルートを予測して、そのルート上を、捜索する。
小文たちは、現場周辺で、凶器ばかりでなく、犯人の手掛かりになりそうなものがないか、探した。大粒の雨が、小文たちの雨合羽に突き刺さり、それは藍染の作務衣にまで浸透するようだった。ゴム長靴は、中まで水びたしである。
それでも、彼女たちは、親友の無実を晴らすという一念で、泥にまみれ、雨に濡れた草の上で、なんどもころんだ。雨にはじけた地面の土が、顔を泥だらけにした。だれかが、草で手足の指を切った。しかし、だれ一人、音をあげない。
色鮮やかなパラソルが、五本、不忍池のまわりに、咲いた。それが、右に左に、懐中電灯の光の線とともに、動き回る。
龍之介は、五人の行動範囲を把握しながら、玉喜の作成した地図の上に、探索が終わった場所を、塗りつぶしてゆく。
昼少しまえ、咲良が、池の北側の斜面を探していて、草むらの陰にあてた、懐中電灯の光に反射して光った、細く短い金属を、一本見つけた。それは、片刃の和かみそりだった。
「みつけた」
咲良が、叫んだ。
その声で、他の四人が、咲良のそばに駈け寄った。
「咲良、千春さんは、あんたに見つけてもらいたかったんだろうね、きっと」
小文の言葉に、四人が声をあげて泣いた。
「龍之介さん、みつけたよ」
小文が大きな声で、叫んだ。
五人の娘たちは、全身ずぶ濡れで、顔は泥まみれだった。だれが誰かもわからないくらいだった。その泥を、大粒の雨と涙が、洗い流してゆく。
つづく