若林正恭風もんじゃに卵は入れないだろ。
許せないもんじゃ焼きの卵
「卵ってさ、万能だよね」なんて言葉を聞くたびに、僕は苦い顔をしてしまう。もちろん、卵そのものが悪いわけじゃない。朝食の目玉焼き、出汁の効いた卵焼き、ラーメンの味玉。どれも僕にとっては、日常の一部だ。問題なのは、もんじゃ焼きにおける卵だ。
月島のもんじゃストリートに足を踏み入れるたびに感じるのだが、卵というのは、もんじゃ界において妙な立ち位置にいる。主役にはなれないが、いないと少し物足りない。あたかも映画のエンドロールに出てくる「警察官B」みたいな存在感だ。でも、問題なのはその微妙な存在感をいいことに、たまに主役気取りをする卵がいることだ。
あの日、僕は友人たちと月島のとあるもんじゃ屋に入った。注文したのは「明太もちチーズもんじゃ」だ。この黄金の組み合わせに卵を追加でトッピングするかしないか、友人たちと一瞬だけ議論になった。僕は「いらないんじゃない?」と言ったが、多数決で負けた。卵が入ると滑らかさが増すとか、コクが深くなるとか、そんなよく聞く言葉が並べられたのだ。
「まあ、いいか」と妥協して、鉄板の上でもんじゃが焼き上がるのを待った。ジュウジュウと音を立て、香ばしい匂いが立ち上る。少しずつ広がっていく具材の風景は、まるで鉄板の上で広がる壮大なパノラマだ。そんな風景の真ん中に、問題の卵がとろりと鎮座していた。
一口食べると、やっぱり卵が邪魔だった。滑らかさが増した? コクが深くなった? 嘘をつけ、と僕は思った。明太子のピリリとした辛さ、もちの弾力、チーズの濃厚さ。それらが織りなすハーモニーの中に、卵が割り込んでくるのだ。しかも、卵特有の風味が妙に主張する。せっかくのもんじゃ焼きの繊細なバランスが崩れてしまう。
食べながら僕は考えた。卵は、料理において受け身の存在であるべきではないのかと。卵はあくまでサポート役に徹するべきで、主役の邪魔をしてはいけない。もんじゃ焼きは、その素材の個性を活かしてこそ輝く料理だ。そこに卵が不必要に絡みすぎると、すべてがぼやけてしまうのだ。
そういえば、僕は他の場面でも卵にイライラさせられたことがあった。以前、別のもんじゃ屋で「特製もんじゃ」という名のメニューを頼んだことがある。そこには、初めから卵が入っていた。僕は何も知らずに鉄板の前で待っていたが、運ばれてきた具材には卵が中央に鎮座していた。
その時、店員さんが得意げに「これが当店自慢の卵入り特製もんじゃです」と言った。だが一口食べてみると、僕はがっかりした。全体的に味がぼんやりしていて、卵がもんじゃの良さを消してしまっているように感じたのだ。それ以来、僕の中で「卵入りもんじゃは慎重に」という警鐘が鳴るようになった。
友人にその話をすると、「卵、そんなに嫌いだったっけ?」と笑われる。いや、そうじゃない。僕は卵そのものが嫌いなのではない。卵は時と場合によって素晴らしい活躍をする存在だ。ただ、もんじゃ焼きというフィールドにおいては、卵は謙虚さを求められる存在なのだ。
「卵は滑らかさを出してくれるし、いいアクセントになるんだよ」と友人は言う。でも、それはもんじゃ焼きの本質を理解していない発言だと思う。もんじゃ焼きは、鉄板の上で混ざり合う具材の個性が主役だ。そこに卵が入り込むと、混ざり合うべきものが混ざりすぎてしまう。個性が消え、ただの卵焼きに近づいてしまうのだ。
それでも卵を使いたいという人がいるなら、僕はこう言いたい。せめて慎重に扱ってほしい、と。卵はもんじゃ焼きの主役にはなれないのだから、主役を引き立てる黒子に徹するべきだ。味のバランスを崩さない程度に加える。それが卵にもんじゃ焼き界での居場所を与える唯一の方法だと思う。
僕は今でももんじゃ焼きが好きだ。そして、月島のもんじゃストリートを歩くたびに思う。卵とどう向き合うかで、その日のもんじゃ体験が大きく変わるのだと。そして、僕はそのバランスを追い求めて、これからももんじゃストリートをさまよい続けるだろう。