これからおじさん。
「おじさんと仲良くしてほしい」
最近、何かと「おじさん」が槍玉に挙げられることが多い。SNSでは「おじさん構文」と呼ばれる、独特の絵文字や句読点の多いメッセージが晒され、「距離感がわからないおじさん」が叩かれている。電車に乗れば、年齢を理由に若者に席を譲られるおじさんが目撃され、カフェでコーヒーを飲んでいるだけで「おじさんぽい」と言われる。
世の中、そんなにおじさんに厳しくしなくてもいいじゃないかと思うのだが、僕自身も40代に差し掛かり、「あれ、これってもしかしておじさんの入り口?」と不安になることが増えてきた。だからこそ、少しだけ声を大にして言いたい。「おじさんと仲良くしてほしい」と。
そもそも、「おじさん」という言葉にはどこかネガティブな響きがある。例えば、20代の若者が「最近、会社のおじさんがさぁ」と話し始めると、だいたいその後には「話が長い」とか「アドバイスが的外れ」といった文句が続く。30代の女性が「おじさんに食事に誘われた」と話すと、その場の空気には少しだけ警戒感が漂う。
でも、それって本当におじさんが悪いのだろうか。僕はむしろ、おじさんが一生懸命若者と関わろうとしている結果なのではないかと思う。
たとえば、「おじさん構文」だ。あれはおじさんたちが、若者と仲良くしようとして必死に送り出したメッセージだと思うのだ。絵文字や句読点がやたら多いのは、「この文章が冷たく見えないように」「もっと楽しそうに見えるように」という配慮の表れだろうし、妙に長文なのも「ちゃんと自分の気持ちを伝えたい」という真面目さの現れだ。
おじさんたちは、若い人たちが何を求めているのかを理解しようとして、結果的に空回りしているだけなのだ。その空回りを笑うのは簡単だけれど、僕はその背後にある「なんとか仲良くしたい」という気持ちを、もう少しだけ汲んであげてほしいと思う。
それに、おじさんにはおじさんなりの良さがある。若者にはない人生経験と、どこか諦めにも似た優しさが、彼らには備わっている。僕の父親もそうだったが、おじさんたちは何か大事なことを教えるとき、大抵それが回りくどい説教の形になってしまう。でも、それは本気で「君に知っておいてほしい」と思っているからだ。
もちろん、若い人にとっては鬱陶しいだろう。僕自身、20代の頃に聞かされた上司のお説教を思い出すと、うんざりした顔をしていた自分が浮かぶ。けれど、30代後半になった今、そのときの話がふと頭をよぎり、「あれ、案外いいこと言ってたのかもしれない」と思うことがある。
おじさんたちは、若者と違って急がない。急がないから、何かを教えるのにも時間がかかるし、言葉も慎重に選ぶ。でも、その遅さこそが、おじさんの良さなのだ。慌ただしい現代社会で、彼らの持つ「ゆっくりした時間」は、どこか貴重に思える。
ただ、確かにおじさんにも反省してほしい部分はある。若者のことを分かった気になり、無理に近づこうとすると、距離感を間違えてしまうのはおじさん特有の欠点だろう。僕自身も、10歳以上年下の芸人仲間と話すとき、つい「若者の話題に合わせなきゃ」と思い、「YouTubeで見たけどさ」とか、「あのTikTokの…」と不慣れな言葉を口にしてしまう。だが、そのたびに「無理している自分」に気づいて、心の中で恥ずかしくなる。
本当は、無理に合わせる必要なんてないのだ。おじさんが若者に歩み寄るのは大切だけれど、無理をすると逆に距離が広がることもある。だからこそ、おじさんたちには「自分らしさ」を大切にしてほしい。そして、若者たちには、その「自分らしさ」を温かく見守ってほしい。
ここでひとつ、お願いをしたい。どうか若者のみなさん、もう少しだけおじさんたちと仲良くしてほしい。おじさんは、みなさんが思っているよりも不器用だ。でも、その不器用さの裏には、意外と純粋な気持ちが隠れていることが多い。
そして、おじさんたちへ。どうか若者を怖がらないでほしい。怖がるからこそ、距離を取りすぎたり、逆に近づきすぎたりしてしまうのだ。少し離れたところから、そっと寄り添うくらいでいい。それがきっと、若者と仲良くする一番のコツだと思う。
最後に、僕自身も、おじさん予備軍として心に留めておきたいことがある。それは、「おじさんであることを恥じない」ということだ。年齢を重ねるというのは、若い頃には気づけなかった世界が見えるようになるということだ。おじさんになったからこそ分かることがあるのだから、それをちゃんと胸を張って伝えていきたい。
だから、僕は今日もそっと願う。「おじさんと仲良くしてほしい」と。世界がもう少しだけ、おじさんに優しい場所になりますように、と。