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ざまあ!虚言ババア死ね!
「ざまあ!!天罰だねw虚言ババア消えろ!」
最近SNSを開くと、いやでも目に飛び込んでくる文字列がある。たとえば、「ざまあ!」とか「天罰だねw」とか、「虚言ババア消えろ!」みたいな言葉たちだ。これはいわゆるネットスラングであり、感情が強く出た瞬間を切り取った言葉たちだ。だけど、そんな言葉が軽々と目に入ってくると、こちらの脳みそは「え、そんなことが起きたの?」と反応してしまう。見たくないと思いつつ、なぜか指が勝手にそのツイートをクリックしてしまうのだ。そしてその先に待っているのは、炎上している誰かや、誰かを煽るようなコメントの数々だ。
正直に言うと、こういう言葉を見かけるたび、俺は少し落ち込む。いや、直接自分に向けられたものじゃないんだけど、どこかで自分にも関係ある気がしてくるから不思議だ。僕たちは誰かを「ざまあ!」って笑い飛ばしたいほど怒りや憎しみを抱えながら生きているんだろうか?それとも、単に暇で目の前にある誰かの失敗に乗っかってみたいだけなのか。
こういう話になると、必ず昔の自分の話を思い出す。中学時代、クラスでよく嘘をつく女の子がいた。みんなでその子のことを「虚言ババア」って呼んでいた。いや、今となっては名前に「ババア」と付けるセンスがダサいし、そもそもそんな呼び方をしていた自分が恥ずかしい。でもその頃は「俺たちが正義だ」と信じて疑わなかった。
彼女は特に悪いことをしていたわけじゃない。ただ、少しだけ話を盛る癖があったんだ。「お父さんが芸能人に会った」とか、「週末に海外旅行に行った」とか、まあ明らかに嘘だとわかる話をする。そんな嘘がみんなをイラつかせて、「またかよ」みたいな空気になる。でも、彼女の嘘って誰かを傷つけるものではなかったんだ。
だけど、俺たちはその「ウソ」を絶対に許せなかった。教室の片隅で「あいつまた嘘ついてるぞ」とヒソヒソ笑い、休み時間には「そんなわけねーだろ」と面と向かって責め立てる。彼女は最初のうちは「本当だもん!」って必死に否定していたけど、だんだんと口数が少なくなっていった。そしてある日、突然学校に来なくなったんだ。
その時は「ざまあ」とか「やっと静かになった」くらいにしか思わなかった。でも、大人になって思い返してみると、あの時の俺たちがやっていたことは、彼女の嘘よりもよっぽど酷かったんじゃないかと思う。
結局、人間はみんな、他人の失敗や欠点を笑い飛ばしたい生き物なんだろう。誰かを批判することで、自分が正しい側に立っているような気分になれる。でもその正しさって、本当に正しいのか?正しさのために誰かを追い詰めたり、傷つけたりしていいのか?そんな疑問がいつも頭をよぎる。
SNSでは、そんな「正しさ」の戦いが毎日のように繰り広げられている。だけど、一度立ち止まって、あの中学時代の教室の片隅にいた自分を思い出してみてほしい。あの時の俺たちは、正義感に燃えて「虚言ババア」と笑いながらも、心のどこかで自分の未熟さや不安を感じていたんじゃないかと思う。結局、誰かを笑い飛ばすのは、自分の弱さを隠すためだったんだろうな、と。
今でも、あの時の彼女がどこで何をしているのかは知らない。でももし、今の俺が彼女に会えるとしたら、こう言いたい。「あの時はごめん」と。そして、「俺たちも子供だったんだ」と伝えたい。
「ざまあ!!天罰だねw虚言ババア消えろ!」という言葉を見るたびに、あの頃の自分が目の前に立って、「お前、本当にそれでいいのか?」と問いかけてくる気がする。そして、その問いに「いいよ」と答えることは、今の俺にはもうできない。
それでも、SNSの世界は今日もざわついている。「ざまあ」と笑う声と、「いや、それは違う」と諭す声。その中で僕たちは何を選ぶのか。ただ、誰かを笑い飛ばす側に回るのではなく、自分の未熟さを受け入れる側でありたいと思う。そしていつか、「ざまあ」とは真逆の言葉が、世界中に広がる日が来ることを、ひそかに願っている。