オードリー若林正恭のドラクエ日記
オードリー若林正恭のドラクエ日記
テレビで見る若林正恭といえば、絶妙なツッコミや飄々とした語り口でお茶の間を笑わせる芸人だ。その一方で、エッセイやラジオでは独特な「ひねくれ感」や、自分を見つめ直す誠実な語りが垣間見える。そんな若林が書く「ドラクエ日記」とは、一体どんなものになるのだろうか。
ドラクエ(ドラゴンクエスト)というゲームは、いわずと知れた国民的RPGだ。スライムに始まり、勇者としての冒険、仲間との出会い、そしてラスボスを倒す達成感。子どもの頃、学校帰りに友達と「昨日、ゾーマ倒した?」なんて話すのが楽しみだった人も多いだろう。だが、若林の「ドラクエ日記」はそんな「普通の楽しみ方」とは一味も二味も違うに違いない。
例えば、若林がゲーム内で町の人に話しかけるシーンを想像してみる。
「なんで、この宿屋の主人は同じセリフしか言わないんだろう?」と考え込む姿が目に浮かぶ。
普通なら「ああ、ゲームだからな」で済ませるところを、彼はきっと深掘りするのだろう。「この宿屋の主人だって、実は裏で家庭の悩みを抱えていて、妻が病気なのにどうしようもないとか、そんな背景があるんじゃないか?」と。さらには、「こんなふうに無限ループで生きているゲームキャラって、芸人のルーティンに似ているな」と自己投影してしまうかもしれない。
若林がドラクエの戦闘シーンに入るとしたら、そこでも独特の視点が炸裂するだろう。スライム一匹を倒すのにも「俺は一体、何匹のスライムをこの先倒すんだろう。こんなことして、本当に世界を救えるのか?」と真面目に考え込む。さらに、仲間のAIが思ったように動かない時、「なんでお前、こんなに無駄にホイミ使うんだよ!」とぼやきつつも、「でも、こういうミスを許せない俺もまた小さいな」と自己嫌悪に陥る。
「ドラクエの世界でさえ、俺は人間関係をこじらせるのか」と、つい現実の自分とリンクしてしまうのが若林流なのだろう。
そして、ドラクエといえば「旅」がテーマだ。物語の中でさまざまな土地を巡り、成長する。若林にとって、ゲームの「旅」とは自分の人生の旅と重なる部分が多いのではないだろうか。彼のエッセイやラジオでは、芸人としての葛藤や、自分の性格をめぐる迷いがよく語られる。
例えば、ドラクエで迷子になり、何度も同じ場所をぐるぐる回る状況を思い浮かべてほしい。その時、若林は「これ、俺の人生そのものじゃないか」と感じるのではないか。迷子になりながらも、地図を広げて一歩一歩進む。それは、売れない時代を乗り越え、相方の春日との関係に悩みつつも、芸人として前に進んできた彼自身の姿と重なる。
ゲームの中盤、「新しい呪文を覚えた!」という瞬間が訪れる。これを、若林はどう捉えるのだろうか?きっと、「俺もこの歳になって、新しいことに挑戦したいけど、こんなふうに簡単には覚えられないよな」と考えるのではないだろうか。たとえば「Zoom会議の使い方を覚えるのに苦労している40代」としての自分を重ねるかもしれない。
そして、ラスボスとの対決。「ドラクエ日記」のクライマックスでは、若林の持ち前の自虐的ユーモアが炸裂するだろう。「俺がラスボスに向かって剣を振りかざす姿を誰が信じる?」「そもそもこの勇者、なんで俺を選んだんだよ。他にもっと立派な人いるだろ!」なんてぼやきながらも、最後はしっかり倒す。そして、「人生もこうやって、戦ってみたら案外勝てるのかもしれないな」と、静かに画面を見つめる姿が想像できる。
若林正恭にとって、ドラクエはただのゲームではなく、「もう一つの人生」そのものだろう。スライム一匹に感情移入し、ゲーム内の街で社会の縮図を見出し、ラスボス戦で自分の弱さを笑いに変える。そんな彼の視点を通して見るドラクエは、きっと私たちが普段遊んでいるドラクエとは全く違うものになる。
若林が「ドラクエ日記」を書いたなら、それはゲームの記録以上に、彼の人生観や哲学を垣間見ることのできるエッセイになるだろう。彼の言葉で語られる「ゲームの世界」には、きっと笑いだけでなく、不思議な温かさや共感が詰まっているに違いない。
ゲームという「非現実」の中で、人生の「現実」を見つめる若林正恭の視点。その日記がもし本当に出版されたら、間違いなく僕たちもまた、ドラクエをやり直したくなるに違いない。勇者になりきれない自分を少し好きになりながら。