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僕は椅子取りゲームが嫌いだ

「僕は椅子取りゲームが嫌いだ」。そう言うと、少し驚かれることが多い。なぜなら、椅子取りゲームは子供の遊びの代表的なもので、運動会や誕生日会などで当たり前のように行われるからだ。ほとんどの人がそれをただの「ゲーム」として楽しみ、一笑に付す。しかし、僕にとって椅子取りゲームは、単なる遊び以上に、不安や疎外感を感じる瞬間だった。

椅子取りゲームのルールは至ってシンプルだ。音楽が鳴る中で参加者たちが椅子の周りを歩き、音楽が止まった瞬間に椅子に座る。そのたびに椅子は一つ減り、最終的には一人だけが勝者となる。一見、単純なゲームだ。しかし、よく考えてみると、このゲームは競争と排除のプロセスを象徴している。椅子に座れなかった人は毎回一人ずつゲームから排除され、最終的には孤独感を味わう。その瞬間、勝者は誰か、敗者は誰かがはっきりと明示されるのだ。

僕が椅子取りゲームを嫌いになったのは、幼少期の経験が大きく影響している。小学校の運動会で行われた椅子取りゲーム。クラスのほとんどの子供たちがワクワクして参加していたが、僕はどうしても気が進まなかった。なぜなら、そのゲームの本質が「他者を蹴落として自分が生き残る」というものだからだ。ゲームが進むにつれて、友達同士でも次第に競争意識が強まり、最後には相手を押しのけてでも椅子を奪おうとする光景が広がる。最初は笑顔で遊んでいた子供たちも、次第にその表情が真剣になり、座れなかった子はしょんぼりと会場を去っていく。まるで、友情よりも勝敗が優先される瞬間を見せつけられているようだった。

僕が最も記憶に残っているのは、最後の二人が残った時の光景だ。クラスで人気者の男の子と、少し内気で目立たない女の子が残った。その瞬間、みんなが一斉に人気者の男の子を応援し始めた。音楽が止まり、彼は笑いながら女の子をわずかに押しのけて椅子を奪った。その瞬間、クラス全体が彼を称賛し、女の子は静かにその場を離れた。その姿を見て、僕はどうしても「これはただの遊びじゃない」と感じた。

椅子取りゲームは、単に座る場所を奪い合うだけでなく、勝者と敗者、強者と弱者を露骨に分ける構造を持っている。勝者となった子供は一瞬の栄光を手に入れるが、敗者となった子供はその瞬間、集団から排除される。もちろん、これは大人の視点から見た過剰な解釈かもしれない。しかし、子供の世界でも、このような競争や排除の感覚は確実に存在する。そして、椅子取りゲームはその感覚を無意識に教え込む装置の一つではないかと感じるのだ。

大人になってからも、僕はこの椅子取りゲームのメタファーが現実社会にどれだけ浸透しているかに気づかされる。就職活動、仕事のプロジェクト、日常のちょっとした人間関係の中でも、僕たちは常に「限られた椅子」を巡って競争している。そして、そこには必ず「勝者」と「敗者」が生まれる。この競争が悪いわけではない。時に、競争が人々の成長を促すこともある。しかし、その競争が誰かを排除し、孤独を生む瞬間を目の当たりにすると、僕はいつもあの椅子取りゲームの記憶が蘇る。

いじめの始まりもまた、こうした無意識の排除や競争から生まれることがある。椅子取りゲームが示すのは、誰かが座れなかった瞬間、その人が「負け組」とされ、他者から見下される構造だ。これは、子供の世界でも、そして大人の世界でも、さまざまな形で再現される。誰かが弱者として扱われ、孤立させられる。それがいじめの発端となることは少なくない。

だからこそ、僕は椅子取りゲームが嫌いだ。子供の頃に感じた違和感は、今も変わらない。もちろん、すべての競争やゲームが悪いわけではない。しかし、僕はできる限り、誰もが排除されず、誰もが参加できる場を作りたいと考える。人生は椅子取りゲームのように、限られた椅子を奪い合う競争だけではない。むしろ、お互いを支え合い、共存する方法を探ることが、より豊かな生き方なのではないだろうか。

僕にとっての理想は、椅子が一つ足りないなら、誰かが新しい椅子を持ってくるような世界だ。競争に疲れ、誰かを排除することに慣れてしまった現代社会の中で、そんな新しいルールを提案できるような大人でありたい。

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