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【Digression】社会不適合者というスティグマ

注)脈絡も、とりとめも、突拍子もない、そんな事ばかりを書くことが増えましたので、【Digression】という分類を追加しました。既存の記事についても、そのカテゴリ(特に【エンジニア】というカテゴリからエンジニアリング)っぽくないものも随時変更していきます。

一年の節目的なやつ・・・

「このご時世」ですが、年末や新年を迎えると、どうしても自分の力では抗えない行事が降りかかってくることが増える。

もちろん、がんとして不参加の旨を表明することもできなくはないが、それによる(大抵は思い込みだが)リスクを考えると、なかなか難しく特に、この「一年の節目」というオプションがその「暴力性」を強めてくる。

この1、2年は、ご存知の通り、少し力が弱まっていましたが、それでもまた力を取り戻しつつあるその強制力に若干の恐怖を感じている。

「協調性」と言われましても・・・

前振りはこの辺にして、、、私はどちらかといえば、「協調性がない」だとか、「もう少し周りを見て」と言われそうな(言われがちな)人間である。

直接、こうした言い回しで言われることはあまりないかもしれない(なくはない)けれど、「もう少し気を利かせて行動しよう」とか「ちょっと変わってますよね」とか、いろんなバリエーションがあるだろう。

そんなバリエーションの一つに「世界はお前中心には回ってない」というものがある。この命題の「世界」の部分は、「社会」だったり、「会社」だったり、「世の中」だったり、これまたいろんなバリエーションが考えられる。

要は、「個人」ではなく、なんらかのグループ、「コミュニティ」の類が入ることが多い。

とにかく、そんなことを言われた際に、「まあ、そんなことは分かっていますけど、別にあなたを中心に回っているわけでもないし、その点については、お互い様では」なんてことは、口が避けても言えない。
むしろ落ち込んで、その日一日どころか、しばらく引きずってまた、色々なミスを重ねる始末である。いわゆる「無能」である。

不出来で不器用な自分への励まし

なにはともあれ、人一倍怒られやすく、不器用で、臆病な癖に、内心(言えもしないのに)、不満、世迷言をこうしてのたまう私だが、

「わざわざ人の足を引っ張ったり、邪魔したり、悪意ある行為」というのは、その是非は問わないが、個人的な気持ちとしては、嫌いである。

自分がそうならないようにも努めているし、(裏目に出ることはよくあるが)自負がある。後輩からは慕われ(舐められ)やすい、話しかけやすい人間だ、と勝手に感じている。だからこそ、自分と同様に怒られたりしている人の、他人には見えにくい配慮や、考え方のプロセスが割と分かる。

だから何というわけではないのが、そうした人たちや自分に向けて言いたいことがある。「世界や社会じゃなくて、自分は自分と、自分の大切な人、好きな人のために、行動したり、振る舞ったりしている」のであり、それは「〇〇はお前中心には回ってない」と言うようなその人もほとんど変わらない、ということである。

「怒る人」には、その人なりの利害関係があってそうやって人を怒るし、そこにはもちろん成長してもらいたいという思いもあるかもしれない。けれども、そこでうまくそうした思いや背景を汲み取れない人間は一定数いる(私がそうだ)。「あいつのためを思って叱っている」というのは、それで、その「あいつ」が成長できた時にのみ適用される結果論でしかない。

そうでないなら、それは、その「怒る人」の勝手な驕りだし、それでもアプローチを変えないならば、それこそ「傲慢で自分勝手で自己満な」あなた(「怒る人」)への壮大なブーメランとなっていることに気づかなければならない。

何様だよと言われても・・・

ここで言いたかったのは、社会不適合者なんて言い回しに惑わされないで居てほしい(居たい)ということだ。

私たちが社会のために居るのではなく、社会が私たちのためにある。

これは、もちろん、専門的な話でも、アカデミックな話でも、精緻に議論された概念の話でもない、「個人的な、あまりに個人的な」見解、あるいは希望である。

仕事もできない、気配りもできないお前が何様だよと言われても、私は、「世間でも正義でもなくて、(自分も含めた)弱いものの味方」であり続けたい、というこれまた傲慢で自己中な決意を固めた、という話。

要するに、私は(いくら飲みニケーション?が大切といわれましても)、飲み会よりも早くお家に帰って自分の好きな人、大切な人と美味しいご飯を食べていたい人間なのだ。




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