近代学校は、どのように誕生したのだろうか。まず学校とは何だろうか。日本国憲法には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」と記載されている。これにより、我々が学校に通うことが普通となっている。しかし、現在のような学校教育制度が作られたのは、19世紀以降である。また、学校教育を受けることが「子どもの権利」であり、社会の公平性の観点から「教育機会の平等」が主張されるようになったのは、20世紀である。そして、現在のような誰もが長期間の学校教育を受けるのが当たり前になった。19世紀以前の子どもたちの多くは、学校に通うのではなく、身近な大人を模範としながら、家庭や地域共同体の労働に参加することで一人前になれた。江戸時代の日本の農民社会では、子どもとは大人と生活を共にし、大人たちの生活様式から、知らず知らずのうちに必要なことを学んでいったのである。学校が特別に必要でなかった頃においては、教育は日常生活の中に組み込まれていたのである。学校がこのように広く普及した要因は4つある。まず一つ目は、思想的要因である。様々な思想家が、万人にための普遍的な知識の教育の重要性を唱えた。例えば17世紀にコメニウスは、近代学校の構想を打ち立て、教育を万人に行うことによって人類の向上を目指した。18世紀では、フランス・イギリス・ドイツで、義務制、無償、宗教的中立の三つの原則を備えた学校教育制度が構想された。例えば、コンドルセは、啓蒙主義的な進歩観に基づいて、公立学校の無償、奨学制度、男女共学を提案した。すべての国民を正しい知識に基づいて合理的に判断・行動できるように教育するということが、国家の国民に対する義務だと考えたのである。また、長年分裂してきたドイツでは再建するために教育が必要視され新しい社会を作る手立てとして国民教育が構成された。2つめに文字文化が普及したことである。人々の日常生活に文字が普及していったのは、活字印刷術を発明したことに発端する。多くの子どもたちが、文字と文字文化を学習するための学校に集まるようになった。文字の習得と処理が、我々が社会生活をする上で不可欠なことである。3つめは、近代国民国家の形成である。長い間教会か民間に委ねられていた学校教育に国家が介入するようになった。近代国家は、初等教育の普及・義務化を通して、「共通」の言語的知識を与えることで、国民形成を図った。4つめは、産業的要因である。近代科学技術の発展と産業化革命に起因する工業化の進展、そして新しいタイプの労働者を生み出した。労働者に求められたのは、文字や記号によって共通に、客観的に表現される科学的な知識・技術を駆使しながら人工的な労働環境に対応する力であった。学校では、単に文字文化を教えるだけでなく学校のリズムを通して、新しい労働環境への適応力を育成することで、新しい産業労働の担い手を育てるための場となった。以上のように、近代学校は様々な要因で作られてきた。そして、すべての国民が機械を均等に各段階の教育を受けられるようになった。