新しい名前について
「名前が2つになります」というお知らせをしました。
今までの、歌い手として活動していたENgiuという名前に加え、
新たに「槐世 夕 (カイセ ユウ)」という名前を作りました。
これついて、Xでもポストしましたが、
改めて、ゆるやかに、何か説明できたらなと思って書いています。
Xにポストした内容はこちらです。
これ以上の情報や、深い内容はないのですが、
言葉を選びすぎず、もっとラフな言い方で話したいと思います。
また、どういう経緯でこうなったのか、どう考えているか、などもお伝えしてみようと思います。
新しい名前について考え始めたのは、
「たそがれ色は延々と」を始めようと決めたとき、
ビジュアルを改め、活動の方向性を定め直そうと考えたときです。
ただこれは、「ENgiuでなくなる必要」は無くて、だから今もこうして残しています。
ENgiuという人間は、出発地点であり、出会いと経験が詰まった、思い出のアルバムみたいなものであり、
「私自身」、即ち「本質」だと思っています。
ではなぜ、そこまで考えていて、それでもなお「名前を2つにする」という決断に至ったのか。
1つは、名前の読みづらさ、書きづらさ、打ちづらさです。
それも個性といえばそうなのかもしれないけど、ずっと引っかかっていたことでした。
そしてもう1つは、理想の自分の具現化です。
自分の中にはいつも、もう一人の「かっこいい自分」がいます。
例えばステージで歌う時、録音する時、曲を作る時、言葉を発信する時、
弱気でネガティブな自分が邪魔をして、
勇気がなくて、意志が弱くて、「こうで在りたい」と思う時にそうなれない。「かっこいい自分」で居たいときなのに、居られない。
そんな現状と決別するための形です。
「役名」のようなもの、と表現しましたが、まさにその通りで
「たそがれ色は延々と」という物語の登場人物のような存在と捉えています。
既存の表現ではないものに挑戦したい。
誰もやっていないような発想、ある意味邪道のような音楽をしてみたい。
生半可な「やりたい」でできるとは思っていません。
だからこそ何度も何度も自分に言い聞かせて、その限りなく「実現不可能」な未来を、つらくても痛くても見つめる日々。
それでも「やりたい、だからやる」を選んだ自分への覚悟です。
ENgiuという人間が、槐世 夕という役を演じ、皮を被って音楽をしている。
今はそんなイメージです。
でもいつか、ENgiuという人間と、槐世 夕という役の「境界線が曖昧になる」ことを望んでいます。
「たそがれ色は延々と」のように。
とは言え、正直今も、これで良かったのだろうか、と悩みます。
ENgiuで居たい、けど新しい形も作りたい、という優柔不断によってなされたこの現状が、
今まで見ていてくれた人を混乱させたり、「つまり何なの?」とモヤモヤさせたりするだろうと思います。すみません。
例えば2つの職業を持つ人が、その仕事によって2つの名義を使い分けることはあります。
しかし私の場合は、どちらも歌うし、カバーを出すし、何が変わるのか、何が違うのか、ENgiuと槐世夕との間にどんな差があるのか、と、自分でも思っています。
だから、これから変わっていかなくちゃいけないし、周囲から「確かに違う」と思わせなくてはいけないと思います。
槐世夕を誕生させたことを「選んでよかった選択肢」だと、未来の自分が思えるように、周りがちょっとは肯定してくれるように、
この先頑張らなきゃな、と思います。
ポストの内容にもあった通り、どちらの名前も意味は同じです。
今まで通り呼んでくださってもいいし、呼びやすいから「槐世夕」からとって呼んでくださってもいいです。
「この名前の在り方を、愛してくれたら嬉しいです。」
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