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【エッセイ】ポーチドエッグ

 今朝は四時起きだった。
 私には高校一年生の息子がいる。
 その息子が所属する部活の大会が別の市であるらしく広島駅に7時に集合で最寄り駅発6時の電車に間に合うように息子を駅まで車で送った。
 息子を送った後で主人と近くのコンビニに寄った。主人は焼肉弁当を、私は赤飯のおにぎりを買った。会計を済ませて駐車場に出ると主人はそのまま車で出勤し、私は歩いて帰宅した。
 帰宅して台所のドアを開けると『ちりん ちりん』と音がした。ラックにぶらさげてあったステンレスのハンガーにエアコンの風があたってきた音だった。こんなに早い時間から家に人間が一人だけということは久しぶりだった。ベランダに出て部屋と同じ高さの線路を走る息子が乗っている電車が通り過ぎてゆくのを見た。電車の窓からはうちのベランダが見えてマンションの屋根がとてつもなく白くなっているのも梅雨前、電車に乗った時、私はそのことに気づいた。
 洗濯物を干した後、冷蔵庫を開けてアイスコーヒーをグラスに注いで私はスマートフォンを手にして台所の椅子に腰掛けた。

 今日は九月二日、幼馴染みの命日だった。『この道しかない』という遺書があったことと、『正確には息をひきとったのが二日の夜なのか日付が変わった三日なのかわからない』と警察が言っていたと同級生から聞いていた。だからその年、その年で二日に命日だと思い出すこともあるし、三日に命日だと思い出すこともあったし、全くと思い出さない年もあった。過ぎてみれば早かった気もするし、とてつもなく長かった気もする。彼が生きた年月を亡くなってからの年月が超えてしまった。それでも『ちりん ちりん』普段は換気扇の音でかき消されて気にもしなかったハンガーの揺れる音を聞きながら、彼の棺の足元の方で泣き喚く同級生たちを立ち尽くしながら見ていた当時の私を思い出していた。何を考えていたのかもう記憶が曖昧だった。中学を卒業してから疎遠になったとはいえ、幼馴染みの彼が亡くなったというのに、絶対に結婚するならこの人だと思っていた彼が亡くなったというのに、涙のひと粒もその時は出てこなかった。棺の中の彼の顔を見なかったからかもしれない。
 彼が亡くなる前、高速船から降りてきた黒のリュックを背負った彼の背中を見た。声がかけれる雰囲気ではなく、気軽に声がかけれるほどもう親しくはなかった。
 亡くなった後で彼の亡くなった理由をいろんな人が探そうとしていた。私のところにも『何か知らないか? 』中学時代の彼の担任だった先生や同級生が聞きに来た。どこを探したって何を知ったってもう彼の命は見つからないのに。だけど探したいと思うだけマシだったのかもしれない。泣けない、自分のことしか考えていなかった私に比べれば。
 あの時の私は多分、当時付き合っていた彼とうまくいってなかったか、別れて、とにかく環境を変えることに必死だったような気もする。『こんなはずじゃない、こんな人生を送るために生きてるわけじゃない』そんなふうに嘆く声は心のなかでただ呼応するだけで『じゃあ何ができるんだい? 』生きてゆくだけで精一杯で私は自分勝手すぎる感情が外で暴れてしまわないように繋ぎ止めておくことに必死だった。だから、誰のこともきっと思えてなかったんだと思う。いや、今だって誰かのことを思うことが本当のところ、よくわからない。その人の内側に入り込んで肩車するみたいに、その人に押し潰されてもいいぐらいの覚悟をもって誰かを思えているのだろうか? と思うとそれは自分のお腹から帝王切開で取り出された息子に対してさえも違う気がした。

 そんなくだらないことをここに書きながら同時に彼の水が流れるような美しかった文字と日が暮れるまで、うちの台所で夕方再放送されていた学園ドラマを見ながら大人びたことを話していたことを思い出した。
「なんかさ、また引っ越すんだ。母ちゃんが夜になると魘されるみたいでどうやら霊がいるらしくてさ」
 確か五年生の夏休みだったか彼は引っ越しというにはあまりにも近すぎる歩いて百メートルもしない場所に母親と二人で引っ越しをした。彼の父親は私達が幼稚園に通っていた頃、ちょうど彼の家の前で遊んでいた時、目の前で大量の吐血をして亡くなった。
 帰省して墓参りに行く途中、彼が住んでいた平屋の霊が出たという家の前を通る。彼から聞いていた幽霊はまだあの家にいるのだろうか? 幽霊とかあの世とかこの世とか地獄とか天国とかって本当にあるとしても、もうどうでもよかった。

 昨夜、ふっと二年前の夏を思い出してあるアカウント名をネットで検索した。そのアカウント名で検索するとなぜかいつも真っ先にひとつの物語が表示される。辛辣な言葉でまるで考察のような長文のコメントをする人が唯一、その人には別人のような優しさを見せる言葉を残していた。『あっ、またこの人か!! 』そう思ってページを閉じようとした時、プロフィール欄に付け足されていた言葉が目に留まった。私は幼馴染みの死には泣けなかったのにコメントのやり取りさえしたこともない他人の死に涙を流していた。そもそも身内の方の言葉が書き加えられてから一ヶ月も過ぎてないのに余計なことばかりをキャッチしてしまうこの無駄な感受性に本気で死んでくれ、とこの夏は何度も思った。

 曇り空だったせいか、アスファルトが焼けるような暑さではなかった。午後から気晴らしにしばらく歩いてなかった道を犬と散歩した。『こんにちは』後ろから声をかけられて振り向くと競技用の自転車に乗った高校生の男の子だった。邪魔になったのだと思い、身体を端に寄せると彼は自転車から降りた。よく顔を見ると息子の同級生だった。彼が小学生の頃、時々、夕暮れのバス停で話をした。彼はサッカーのユニフォームを着てバス停に一人で立っていた。彼はバスに乗って遠くのサッカークラブまで通っていた。夜は眠くなるから朝五時に起きて勉強してるんだと話を聞いたことがあった。
 日に焼けてあどけなさが消えて、すっかりとイケメンになっても彼は小学生の頃と変わらず気さくだった。自転車を押しながら息子の名前を口にして『元気ですか? 』『どこの高校ですか? 』『もう会ってもわからんと思うんですよね』そんな話をしながら歩いた。
『じゃあ、おばちゃんも気をつけてください』彼はそう言って坂の途中にある近所で豪邸と呼ばれている家の中へと入っていった。
 坂道を登ってまた歩道から路地裏の道へと入った時、今度は家の前の掃除をしていた御婦人から話しかけられた。大学の教授をされていた方で植物に詳しいと母親クラブのボランティアで一緒だったのでその方のことは知っていた。『こう暑いと外にも出ないでしょ? だから今日、私が話すのはあなたで三人目。駄目だねぇ、この頃は何をしてるんだろう って思うのよ』そして、犬を見て『私は動物じゃなくて植物を愛でてるのよね』と話を続けられた。私がターシャ・チューダーさんの名前を口にすると『ジェッカズ・ハーブ・ファームまで行ったことがあるのよ。紫蘇がたくさん植えられていてね』とそこから紫蘇の話になった。話を聞いている間に足首のところを蚊にたくさん刺された。
 散歩を終えてマンションの部屋に戻ろうとするとお隣さんがちょうど四国のお土産をうちに持ってくるところだった。『すぐにまた留守にするんですけど』と言われて、桃饅頭とかまどパイの菓子箱を『食べてくださいね』と手渡してくれた。

 そろそろ、息子が帰宅する頃かと時計を見てベランダに出た。
 曇り空が動き出して、青空には、もりもりとした力こぶのような雲と綿菓子をちぎったような雲が見えた。
 耳障りだった蝉の鳴き声がすっかりと秋に押されていた。
 夏の終わりは特に寂しい。
 なにか抱えていた大事なものをひとつ落として次の夏までそれに気づかないような気がするから。
 憎しみの中から滲み出る愛しさも、愛しさの中から滲み出る歯痒さもすべてがあっという間に去ってゆくような気がした。
 あんなに暑かったのに、あんなに身体から汗を流したのにすべてが遠くに行ったような気がして台所にいるのに目の前に誰も乗っていない浜辺に打ち上がった木の船が見えた。

『ただいま』その声が聞こえるまで私はその木の船がどこから漂流したのかをまたここに書こうとしていた。

 令和五年九月二日、台所にて。

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 『今の暮らしには熱がないね』と思ったのは先月の半ば。熱がないと言っていたら息子が熱を出して寝込んだ。インフルエンザもコロナも陰性。それでも熱は39℃を超え、息子から主人そして私へとうつっていった。私は熱はさほど出なかったものの身体にもう一人の私がくっついたような重さがあり少し起きて用事をしてまた寝る、今月になってからそんな日々を繰り返している。そして布団に横になって眠るまでの間、どうでいいSNSのつぶやきを少しぼやけた感じで見ていた。そんな中でコンピューターというのは誰よりも正確に心がわかるのではないか? と思うことがあった。それはタイムラインだ。ランダムにオススメされているであろうつぶやきの中で『ほらっ、あなたのことが言われてますよ』とひっかかる言葉が表示される。夏の終わり、アカウント名は知ってはいるけれど関わったことのない方のつぶやきがタイムラインに表示されていた。それは強烈に誰かのことを批判する内容で接点はないのになぜかそれが『私』ではないか? と物凄くひっかかった。彼はもしかして私とトラブルになった彼と同一人物なのか? まさか? 何度も何度も言葉を読み返してみた。そしてふと思い出した。随分と過去のことを。私がとある会社の事務の仕事をしている時だった。毎月、棚卸しになると商品の数が合わず、その度に営業担当の男の人が私に『なんで合わんのんだろうか? 』と真剣な顔で言ってきた。商品が管理されていた倉庫は外部から入ることは不可能で鍵を扱えるのは社長と営業の社員数人だけだった。『なんで合わんのんだろうか? 』と聞いてこられても私にはわからず、『毎月、合わないなんて不思議ですよね』と私はそのたびに答えていた。あまりにも毎月毎月私に聞いてくるので、もしかして私が勝手に鍵を使って倉庫に侵入していると思われてるのではないか? と思ったほど。だけど私は鍵の置いてある場所も知らなかったし、倉庫は女の人一人で入るような場所ではなかった。それから数年後、その営業の男の人が解雇された。盗んだ商品を自分で売りさばいていたことがバレての解雇だった。自分で盗っておきながらどんな気持ちで私に言っていたのだろう? 詐欺師が詐欺のことを疑われた時、長文で否定すると聞いたことがあるけれど『薫さん、怖いわ。ネットの世界にはなりすましがたくさんいる』私に言ってきた友達がまさに他人になりすましてダイレクトメッセージをしてきたように彼のなりすましがあちこちにいるのだろうか? 顔が見えないネットの海は言葉だけが勝手に流れてきてはまた遠のいて沈んでゆく。言葉だけなのに見えもしない心が激しくダメージを受けることもある。全てはやめてしまえばあっという間に日常から消えるというのに。

 今年は父の十三回忌だと思い、久しぶりに母に電話をした。
「母さん、十一月にはお父さんの十三回忌があるでしょ? その時だけは日帰りで帰るけんね? 」
「ああ、まあ十三回忌だから仕方ないね」
 本当は母は私に帰省してほしくなかったのだ。いつからか自分の実家なのに母から帰省されることを拒否されていた。電話を切った後、母と会えるのはあと何回ぐらいなのだろうか? と冷蔵庫にマグネットでつけてあるカレンダーを見た。人は必ず死ぬ。だけどその当たり前にわかりきったことを時々忘れてしまって人生がどこまでも限りなく空のように続くのではないか? と錯覚を起こす。
 ちょうど去年の今頃、昼間の散歩で買い物帰りの友達のお母さんとすれ違った。『元気ですか? 』と声をかけると『元気じゃないのよ。しんどいの』そう言いながらゆっくりと手押し車を押していた。それから年が明けて
「これから母を病院へ連れて行ってくる」
 ちょうど私が友達の実家の近くを歩いていたら母親を迎えに来た友達とばったり出会った。
「大丈夫なの? 」
「わからないけど食事もあんまりできないみたいでね、また今度ゆっくり話そうね」
 そう言って車の中から手を振っていた友達の姿を昨日のことのようにはっきりと覚えている。あれから毎日夕方の散歩で友達の実家のそばを通りながら認知症で施設に入ったおじさんも、具合が悪そうだったおばちゃんも元気だろうか? と思っていた。息子が幼稚園の頃はよく遊びに行かせてもらっていたし友達と一緒にPTAの役員をした時は書類をよく彼女の実家に託けたりもしていた。
「大腸がんだったらしいよ。入院した時には手遅れだったんだって」
 彼女のお母さんが亡くなっていたことを先日、近所の方から聞いた。
『元気じゃないのよ、しんどいの』ちょうど一年前のあの言葉が最後だったんだなと思うと人生は長くて、だけどあっという間に終わってしまうんだなと思う。友達は疲弊していないだろうか? そう思いながらもラインのトーク画面を開いたまま言葉が出てこなかった。
 
 歳を重ねてゆくということは自ずと悩みも形を変える。圧倒的に自分以外の悩みが増える。親のこと、パートナーのこと、自分のこと、子供のこと、上司や同僚、ご近所さんの悩みだってあるだろう。
『この先、生きていても楽しみってあるのかな? 』時々、私の脳内にもそんな言葉がよぎる。幸せは自分の中にしか存在しないこともわかってる。人生は前向きに考えた方がいいこともわかってる。人とは喧嘩するよりも仲良くした方がいい、そんなことだってわかってる。それでも時々、体の中のすべての血液がひんやりするように私がただ私自身を呆然と海を見るように眺めているのを感じる。それはまるで人生のすべてが終った後みたいに、ただ私は私をじっと見ているのだ。
 昔、母がじっと私をただただ見ていたように。母は私のことが嫌いだと思う。いつか言っていた。他の人には我慢できることも私には全てさらけ出して見せてしまうんだと。実家へ帰省することを母から拒否されながらも息子が小学校を卒業するまでは毎年、夏休みになると反対する母を息子が説得して無理やり帰省していた。都会で育った息子にとって近くにお店もない、ほとんど車も通らない、家から歩いて数分もしないうちに海があって夜になれば恐ろしいほどの数の星が見える島での日々はとても心が落ちつくものだったらしい。それは毎年、帰りの高速船で大粒の涙をこぼして泣くほど。そして今でも息子にとってはどんな料理よりも母が手にアジシオをつけてにぎるだけのおむすびが一番この世の中で美味しいものだと。
 そんな母は去年、八十三歳の同窓会に参加した。はじめは断る気持ちでいたらしいけれどもう次の同窓会はないよ、と言われ無理やり参加させられたと。八十三歳だから十人も満たない人数で。それでも『男子が奢ってくれたのよ』と嬉しそうに参加してよかったと電話で話していた。
 私が中学生の頃の同窓会に最後に参加したのは確か四十五歳の時だった。今でこそ、気が強くて男の人達とも平気で喧嘩するけれど昔は暗くて陰気で男子とはほぼ話せなかった。小学生の頃、よく私を虐めていた男子も同窓会に来ていて
「昔、すごくあなたのせいで学校行くのが嫌だったんだよね」
 と話しかけると
「すみません。あなた誰? 」
と言われた。
「川本です」
と伝えると
「えっ? マジ? めっちゃ変わってない? 」
とびっくりされてすぐさま謝られた。

 息子が落ち着くと言っている島の生活もいざ住むとなると少し違う。母も含めて島の人はよそ者を受け付けない。自分が指をさされる前に他人を指差す。父が亡くなった翌年の夏、盆踊りの準備をするのに主人と海辺を歩いていた。『あいつ、障がい者と結婚したんだってさ。やっぱり馬鹿だよな』漁業組合の前にたむろしていた知人の一人が私に聞こえるように言ってきた。聞こえないふりをしていたら今度は『障がい者と結婚したんだってさ』さらに大きな声で言ってきた。都会ならありえないことかもしれない。何でもかんでも先に口にしたものが勝ちみたいに田舎にいると『変わってる』とか『おかしい』とか自分を棚にあげて他人を蔑むことに躍起になってしまう。それはある種の自分を守るため。聞こえないふりをして通り過ぎようとしたら今度は目の前に足を出してきた。主人はそれでも見てみないふりをした。私はその人が癌で闘病中なのを知っていたから言い返したい気持ちを抑えて『大丈夫? 』と聞くと『大丈夫なわけないだろう? 』としゃくるように言ってきた。それがその人との最後の会話になった。父は生前、『死にたくないんだよ。特に癌の治療なんてしたくないんだ。とにかく倒れて一瞬であの世に生きたい』私に何度もそう言っていた。その父がまさに眠るようにして亡くなったのは十二月の下旬だった。その日の父は朝、犬の散歩をして午後から肺炎の疑いがあるからと近所の病院へ入院する予定だった。昼御飯に魚の煮付けを食べて母と二人で病院まで歩いて、それから三十分もたたないうちに父はまるで昼寝しているかのようにあの世へ行ってしまった。そんなことを微塵も知らなかった私は主人が夜から仕事で主人と息子が早めのお風呂に入った後、私もお風呂に入っていた。湯船に浸かっていると、主人がわざわざ『弟さんから着信があった』とお風呂まで携帯を持ってきた。慌てて風呂からあがって折り返し電話すると
「おやじが危篤らしいからすぐに帰ってこいだって近所の人から電話があった」
「すぐに帰ってこいって言ってももう夕方過ぎてるでしょ? 危篤って何かの間違いじゃないの? 最終のフェリーにだってギリギリよ? 」
「それでも帰ってこいって」
「わかった。じゃあ迎えに来て」
 電話を切って五分もしないうちに
「もう亡くなったらしい」
 弟からまた電話があった。
 なにをどう準備したのか覚えていない。喪服と息子の幼稚園の制服とそれから主人の会社に忌引で休むことを連絡して闘病中だった愛犬のインスリンと注射器を鞄の中に詰めた。一時間しないうちに弟が迎えに来て夜の高速道路を走りながら窓の外を見ていたことを思い出す。母は突然のことに疲れ果てていた。結局、私が父の遺体のそばで一晩明かした。途中まで近所の人がやってきて、どうでもいい話を父の遺体のそばでずっとしていた。親切心からだとはわかっていた。それでも静かにしてほしかったのだ。父に可愛がられていた愛犬はわかっていたのだろうか? ずっと寄り添うように隣で眠っていた。そこから葬儀が終わるまでの間、父が亡くなってしまった悲しさより母の段取りの悪さで親戚が揉めたことが今も心残りだった。たった千円ほどのお弁当を『もらった』『もらえなかった』で近所の人達が騒いでいるのを聞いて都会で暮らす叔母達と本気で呆れたのだ。
 ただそんな中で救いだったのは誰一人として父の悪口を言う人いなかったことだった。父が十歳の時に『新しいシャツを買って』と母親に我儘を言った翌日、産後の肥立ちの悪さが原因で母親が亡くなって父はその事をずっと後悔してるとよく話していた。みんながまだ学校へ行く中、家計を助けるために中卒で船に乗って働いたことも。
 父は幸せだったのだろうか? 私の姉は双子でふたりとも生後二ヶ月で亡くなっている。産婦人科の先生から『しばらくは病院から通ってください』と言われるほど母も姉たちも予断を許さない状態が続いて父も精神的に参って一時的に肝臓を悪くしたと言っていた。
 菓子箱の中に入れられていた亡くなってすぐの姉たちの写真はとても怖かった。白黒の写真なのに顔色の悪さと血管が浮き出ているのがわかった。幼い頃にはわからなかった死んでしまった我が子をどんな気持ちで抱いていたのだろうか? 菓子箱の蓋を閉める時『なぜ、お前は生きてるんだ? 』そう姉たちに問われているような気持ちになった。最近になってようやく母はその時の事を話し始めた。小さな棺を燃やされてしまうのが嫌で離さなかったこと。私や弟たちを妊娠した時、喜びとそれ以上に亡くなってしまわないか? ととても怖かったこと。母は私を育てることよりも、私がとにかく死んでしまわないように、と必死だったんだんだ、と今なら理解できる。
 来月、父の十三回忌で久しぶりに帰省する。そして、きっとお寺の庭で瀬戸内海を見ながらそこで記念写真を撮っていた子供の頃を思い出すんだ。夏休みのたびに帰省していた親戚たちはいつの間にかもう島には来なくなって叔父たちも亡くなってしまった。携帯がなかった時代、墓参りをしたときや法事でお寺に参った時、叔父がカメラで写真を撮ってくれていた。お盆が過ぎて従兄弟たちがそれぞれ大阪や九州に帰ってゆくのを桟橋で見送りながら、その時、はじめて寂しさを知ったのだと思う。
 同時にその寂しさを思い出す時、いつもそこには海がいてくれた。どんな時であろうと海はそこでただ見ていてくれたのだ。すべてを。
 私は海と雨が好きだ。
 海も雨もただ黙って見ていてくれる気がするから。今年の春、主人が交通事故をおこした朝も雨が降っていた。『事故をおこしました』朝の四時半、早朝出勤だった主人から届いたラインのメッセージに何度もこれは夢ではないのか? と思った。夢じゃないかと思いながら着替えていたら警察から電話があった。夢の中を生きてるような時間だった。タクシーから降りて交差点の真ん中で運転席側がぺちゃんこになったフォレスターが雨に打たれていた。警察も後から来たレッカー車の会社の人もみんな雨に打たれていた。主人は気が動転していて、私が警察とやり取りしている間、何度も雨宿りしていたマンションの階段から滑って転けていた。人生が終わったなと思った朝、誰一人として怒りはしなかった。電話をしてきた警察官もレッカー車の人も現場の警察官も事故の相手の方も、すぐにレンタカーを手配して大雨の中、駐車場までレンタカーを運転してきてくれたディラーの方も。『あんな事故を起こして!! 』と怒号が飛ぶことを覚悟していた。携帯を持ったまま土下座することを覚悟していた。それでも誰一人として主人を責めたりはしなかった。そんなことを思い出していると四年ぶりに山の中にある神社の方から祭囃子が聞こえてきた。引っ越して最初に迎えた秋、夜になって突然、どこからともなく祭囃子が聞こえてきてびっくりしたことを今でも覚えている。知り合いが誰一人としていない、ただ猫と犬が飼えるということでこのマンションに引っ越してきた。引越してきて数年経ってやっぱり夜になって祭囃子が突然聞こえてきた時、まだ幼かった息子と『行ってみようか? 』暗闇の中、外を歩いた。祭囃子の音を頼りに山の方へ山の方へ歩いているうちに途中で迷子になって目の前の道路に停まって待機していた消防団の人に道を聞いた。山の中にあるこんな神社で夜から祭りが行われるなんてまるで映画の世界の中にいるようだった。息子が小学一年生の時にはそのお祭りで神楽を踊らせてもらった。『山の中で夜だから寒いからダウンを持ってきた方がいいよ』と教えてもらって、神楽の衣装を町内会の人に着せてもらったあの夜から九年が過ぎたのだなと打ち上がる花火の音を聞きながらしみじみと思った。ここでの生活もあと三年だろうか。もういい歳なのに終の住処が決まっていなかった。どうするのだろう? と他人事のように思いながら、人生は思いもしないことが起こる。三年後、生きているかどうかわからない。言葉の力だとか音楽の力だとか簡単に口にしているけれど目の前に銃を突きつけられたら一瞬で散る命だ。
お盆に墓に供えられた花はすっかりと枯れてもまだまっすぐに今日も墓前に立っていた。桜の木の葉は茶色へと変化しアスファルトの上に落ちながら風に舞っていた。すべては時間をかけて地球に戻る。私が戻るところはどこだろうか? 父や姉たちは今、どこにいるのだろう? 考えても仕方ないことをこうして言葉にしながら、時にかまちょだとか悲劇のヒロイン子だと言われながらも書いてる自分が馬鹿みたいだなぁと思う。そして馬鹿になれたんだと思う。
 どうしようもない夜の海のようなタールのような心の中にも光はある。夜の海を覗き込んで見れば魚が泳いでいる姿が見えるように悪魔の心の中にも小さな光はあるのだと思う。心には形も色もない。だからこそ、それを表現する時、言葉を使う。伝えたい気持ちほど言葉にできない。傷つける言葉ほど簡単に出てくるというのに。相手を責める言葉は簡単に出てくるのにその言葉を自分に向けた時、自分の中から浮かび上がってくることはどんな景色なのか。
 ──怒るより記録せよ。
 ドライブレコーダーを見て検証した警察官が私に笑いながら言った言葉だった。言った言わないではなく、確かに口にしたのだと自分の言葉に責任を持て!! そう警察官に言われている気がした。
 また今日が終わる。
 自分の人生の終わりはわからない。明日かもしれないし、三十年後かもしれない。幸せだと思うかもしれないし、もう終わらせてくれ、と痛みで苦しんでるかもしれない。意味があって無意味で。出会うべきして傷つけ合って。才能もないのに書き散らかして。それでも美しいのだと思う。海のように無限に溢れてくる思いと雨のように降り注いでくる記憶が。明日になっても明後日になってもきっと私は言葉を紡ごうとする。その言葉を粉々にされれば、またひとつひとつ拾い集めて、輝きを失いそうな時は思いっきり太陽の光をあてて、どうか言葉が死にませんように──、ネットの海に物語を放ってどうかあなたへたどり着くように、と願うのだ。
 私の中の私へ。
 誰に嫌われても好かれても、私は私であるしかないんだよ、と。
 だから、ほら見て──と私は私の心を、ポーチドエッグにナイフを入れるみたいに開いて見せる。
 味付けはご自由に。
 灰になってしまう前にあなたに届けと。
 羽根もついていない、飛べない言葉たち。それでも信じている私は私の中の私があなたを見つけることを。
 言葉よ、ゆけ──。

 十月十七日 二十二時二十三分
 台所にて

 
 

 
 

 
 

 

 

  
 
 

 

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