散文の二 好きなものについて

美術が面白いと思って展示の企画の仕事をしている。
美術は時代と共に、さまざまな物事に影響を受け、どんどんと派生が増え、次々に物事の価値や認識がアップデートされていく。
もちろんそれは美術に限った話ではない。映画や文学、舞台、漫画、音楽なども他の多くの文化も同じだろう。それらはきっとスポーツと一緒で、エンターテイメントとしての側面もありながら、その文化が持つ文脈的な面白さや、各プレイヤーたちの特色を理解していく楽しさもある。歴史の中で築かれてきたそれぞれのルールのようなものを理解していくことで、細かなプレイのディティールが意図として見えてくる。
私は「あの映画が面白い」「あの漫画があの展開が今熱い」「あのミュージシャンのあの歌詞がいい」といった話の延長に「あの作家のあの展示が面白い」があると思っている。
他の物々と同じく、色々な側面を持った文化の一つであり、きっと高尚でもなければ理解不能でもない。

以前友人が「美術は美術という名前に足を引っ張られているのではないだろうか。美しい術だなんて表現で呼ばれるから、前提として見た目が美しくあるべきものとして捉え方が固定されている気がする」というような話をしていた。確かに一理あるような気がする。
その美術というと堅苦しい響きからの脱却も狙ってか最近はアートと呼ぶ方が一般的だろうか。
しかし、アートという書き方になると途端にニュアンスが変わり、理解不能なものの象徴として使われるようになっているように感じる。もしくは自己表現、自己満足といったようなイメージで使われることも多い。
「才能ある天才が自己表現のために作る、よく分からないけど美しいもの」
そういったイメージでアートという概念が認識されているのだろうか。

けれどそんな印象に反して、どんどんとアートは居場所が増えてきている感覚もある。
多くのイベントやホテル、シェアオフィス、公共施設などでも「アートを置こう」「アートを絡めよう」という動きが増えているのだ。わかるやるだけわかればいい、やりたいやつだけでやっとけ、といったようなスタンスには賛同できない私にとってこれは嬉しいことである。
しかし、それでも卑屈で偏見まみれの歪んだ自分にとってそれは不安の種でもある。

”アート”は気付けば色々な場所で必要とされていき、「なんかアートっていいよね」「美しいよね」という肯定的なイメージと共に「天才によって作られるよくわかんないもの」「”ぶっとんでいる”もの」「デザインと対極に位置する自己表現」といった排他的なイメージも一緒に引っ提げて認知されていく。要するに”アート”はより多くの人や場所に必要とされていっているはずなのに、ほとんど文化としての立ち位置や受け入れられ方に変化がないような気がする。
様々な人が美術に触れ、様々な形で興味を持ち、様々な受け入れ方をされていく。どれも間違っていないし、それらを誰も否定できることではない。なのになぜか美術は、それに向き合う人が非現実的で理解不能な自己満足に耽る人として蔑ろにされているようにも思える。
「理解不能だが、それらは天才によるものだからだ!」「言葉にできないけれど、感性に訴えかけてくるね!」と誉めそやすフリをして、同時に一つの文化を”意味不明”という谷底へ蹴落としてしまう危うさを感じるのだ。

きっと私は自分が好きなものが蔑ろにされているような気がして、それを守るために勝手に被害者のような意識が働いているだけなのかもしれない。
例えばヒップホップなどに対して全く関心がなかった時(今も特別関心があるわけではないが)、自分にとってラッパーは「なんとなく少し怖い」という雑な認識があった。よく触れる音楽との接点が遠かった分、知らなければ知らない程、「あれは音楽なのか?」という偉そうな不信感を感じていたりもしていた。
今考えてみれば、現在もなお音楽の定義や可能性は更新され続けているし、知らないことの方がほとんどだというのに、こういうものが音楽でこれらはそうでないと区分する図々しさがたまらなく恥ずかしいことだったと思う。
今の自分もきっと無意識下で知らない文化への偏見があって、その文化に向き合う人にとっては腹立たしい口ぶりでそれらを測ってしまうことがあるのだろう。

なのでこれは単なる愚痴であり、自戒のようなメモである。
この自分が思うイメージと、自分が感じる世間とのずれはあくまで主観でしかない。だからこそこのずれを修正していけるのも自分自身しかいないのだろう。
美術は自分にとって未だ掴みきれない魅力がある、奥行きのある文化だ。
これからもきっとずっと「少しわかってきた」と「わからない」を繰り返しながらも、今の自分にとって最優先なのは、まず以前と同じように自分自身が楽しんでいくことかもしれない。

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