#14 「過度に軽視する」 / JINENコトハジメ
・ Podcast「JINENコトハジメ」の文字起こしを中心としたpostです
・【文字起こし】の部分は無料でお読みいただけます
・【解説】【参考文献】の追記後は、その部分は有料公開にする予定です
- - -
【Podcast #14】
他の配信プラットフォームはこちら
・Anchor
・Apple Podcast
【文字起こし #14】
山田:
皆さんこんにちは。JINENコトハジメのPodcast、第14回を始めたいと思います。
このPodcastは「自然経営って何?」っていうこと、自然経営研究会の代表理事の1人である私山田の立場から語っていこうというシリーズです。
今日の聞き手役は前回に引き続きむぎちゃんにお願いしていますよろしくお願いいたします。
麦:
よろしくお願いします。
玉城 麦野(Mugino Tamaki)
沖縄で育ち、京都で学び、東京のITベンチャーで4年間働いた後、カミーノ巡礼、ヴィパッサナー瞑想、古民家でのシェアハウス暮らし、コーチングやファシリテーションの研究、腹筋、散歩、お昼寝などに精力的に取り組む。
現在は「オンラインで働く自由な人」になろうと決意し、2020年1月から台北に移住。対話の場づくりやファシリテーター、島嶼部プロジェクトのコーディネーター、小中学生のネット担任などの分野で活動中。
自然経営研究会代表理事、奈良県立大学「撤退学」研究員、「生命知」の研究実践を行うOrganic Organization Library研究員、資本主義探究部 部員、その他。
山田:
自然経営に対する色々な「ありがちな誤解」を3回に分けて語っていこうと思っていて、その2回目が今日になります。
今日は「過度に軽視する」、軽く見るということを取り上げてみたいと思います。
前回も話した通り。「ありがちな誤解」をあえて語ることで、言語化しづらい、全体として捉えたいところを伝えやすいなと思うので、あえて誤解されがちなところ、よくそこは違うなって語っていることを取り上げてみます。
「軽視する」って言ったときに、大きく分けると三つあるなと思っている。
1つ目はリーダーは必要ないと「リーダーを軽視する」
2つ目は「戦略を軽視する」。
3つ目は「ルールを軽視する」。
この三つ、「リーダー」「戦略」「ルール」があると思っています。
大前提として、この3つに限らずだけど、「戦略」を立てて「リーダーシップ」を発揮するとかのように、今までの組織の中で培われた色んな良い考え方、フレームワーク、知的資産みたいなものって、不要になったわけでは全然なくて、良い知見はぜひ使おうっていうことは大事だと思っています。そこは「過度に軽視」したくない。
一方で、自然経営って「あるがままに委ねる」とか、1人1人の「熱量」を大切にして、その人の判断がなるべく生かされるようにしたときに、必ずしもそのまま適用できないこともある。うまい使い方をしたいなっていうのが、今日挙げた3つどれに対してもあります。
1個ずつ説明をすると、1つ目の「リーダーは必要ない」という話。
これが一番語るのが難しいと思ってるんですけども、どんな活動であれ、そのプロジェクトとか活動取り組みの中心になる「人」とか「人たち」っていうのは必ず必要だと思っている。
その人たちがいるからこそ動いていく、活動が続くっていうのはすごく大事にしたいと思っています。
一方で自然経営で前に語った「力の流動性」で言ったときに、どこに行っても、どの場面でも、必ず同じ人がリーダーになっている、その人だけが影響力を持っていることは、自然経営を実践する上では良くないと思っている。いかに流動的にできるかは大事にしたい。
そうなったときに、中心として活動するリーダーとか、その数人ってどうやって決まるんだろうっていうのって、感覚的なことも含めてこれまで見ていると、ある程度の引っ張れる能力とか、実行力みたいなことはその人に備わっていて、周りが安心して見れるみたいなことは大事。
それだけじゃなくて、その人が当事者としてそれを自分がやりたいなって本当に熱意を持っているかどうか、その人の引き受け方みたいなことが、すごいその場でのリーダーシップを現しているなと思う。
そういう「能力」だけじゃなくて、「熱量」とか「思い入れ」みたいなことがすごく大事だなと思ってます。
一個だけ、これはまだ検証中というか試行錯誤中なんだけど、日本的な組織像だと「1人のカリスマ」みたいな状態でものが進むことだけじゃなくて、何人かでその中心を一緒に持っているような状態が立ち表れてくるんじゃないかな?という気はしている。
自然経営研究会の活動の中でも、もっとうまく体現できるようなりたいなと思っています。
ここは前回の話に通じる気がしますね。
経営者が「私」よりも「社員」を大事にすることに寄り過ぎる、みたいなところは、功罪にどっちもある気はするけど、傾向としてはあるかもしれない、と前回の話を思い出しました。
麦:
うん、そうですね。
山田:
2つ目の「過度に軽視する」として「戦略」がいらない、みたいなこと。
自然経営の特徴として「今を起点に考える」とか「あるがままに委ねる」って言っています。確かに一般的に「戦略」と言われるものとはちょっと違うかもっていう感じはあるんですけど、だからといって戦略とか計画を立てちゃ駄目だって言いたいわけでは全くない。
冒頭に言った通り、必要があればそこの知見は最大限に生かせばいいし、特に大きな構想を実現しようとするとき、色んな人が関わって大きなことをやろうとするときって、ある程度みんなで一緒に見れる構想とかがないと、こういう動き方もできない。
それを作るときに、多くの人が協力しやすくする、共有できる概念みたいなものとしては「戦略」「青写真」「目指したい方向の道筋」みたいなことを書くのはすごく大事だと思います。
一方で、機械的に作るときと別なのは、それを計画したからそれじゃなきゃ駄目だ、と過度に固執せずに、いかに恐れずに手放せるかは自然経営を実践するときに大事なところだと思います。
最後3つ目、「ルール」を過度に軽視する、ルールは必要ないって割り切ることはある気がします。
これは今の戦略の話にも近いんですけど、必要なときには使えばいいじゃないか、っていうのは大前提だし、「3人」でお互いの熱量を感じてやろうって言ってるときと、「50人」でやろうって言ってるときに必要な、互いに気持ちよく関わるための振る舞い方って違うと思う。
分かりやすく言えば、交通ルールとか、道端に書いてある標識とか線とか。別に道路に白い線が引かれてるからといって、それに「制約されてる」わけではなくて、道路に線が書かれてて、車は車道側を通って歩行者は歩道側を通ってるから、知らない土地でも、その線の内側を歩いている歩行者が基本大丈夫だと思える。
お互いに協力関係を作るために線が引かれてる、っていうだけであって、それで一人一人の主体性とか自律性が損なわれていると言うのって、ちょっと観点が違う。
必要があれば破ればいいし、でも線が引かれているからお互い心地良く運転できる、歩けるようねっていうことを、良い距離感で見るっていう意味で、ルールをちゃんと見るっていうのが大事だと思います。
一つあるとすれば、「すべては変わり続ける」というのは自然経営の全体を貫く特徴の1個だと思っているので、ルールそれ自体が絶対的なものとか、ガチガチに固定されている「変えちゃいけないもの」と思いすぎた瞬間に、また損なわれるものが出てくる。
いかに必要があれば「ルールすら書き換えよう」と取り扱えるかは、難しいけど大事なところだなと思います。
こういうよくある「リーダー」「戦略」「ルール」みたいなことの扱い方は自然経営には大事だと思っています。
麦:
面白い。前回からの繋がりがあるなと思って聞いていました。
前回2つの問いがあって、「理想的なあり方は」と「そこに向けて具体的にどんな一手を取りますか」という問いのうち、2つ目の問いにリーダーをなくすとか、戦略をなくすとか、っていうのになっちゃうんだろうなと思って聞いてました。
山田:
扱い方を間違えたときに、確かに「ルール」にしても「戦略」にしても、「ねばならない」ことを作って、それで縛ってしまうと、1人1人が自分の「熱量」から活動するっていうことへの阻害要因になりやすくなる。
そこの取り扱い方とか、関わっている人が「戦略」とか「ルール」をどう捉えているかっていうことがすごく大事なんだと思う。
いかにみんなで「変わってもいいものなんだよ」って思いながら取り扱えるかっていうのが、具体の一手ではすごく大事な気がしますね。
麦:
たしかに。その辺は「ルール」の話を聞いてるときにすごい思って、人を縛るためのルールと見てるか、人を自由にするためのルール見てるかによって、全く世界が変わるじゃないですか。
山田:
そうなんですよ。まさにその辺で、前回から「ありがちな誤解」シリーズを扱いたいのって、やることで言ったら、みんなが働きやすいルールを決めようねって、やってることはすごく一緒で、それを「自由にするためのルール」なのか、「制約するためのルール」なのか、どっちから見るかで本当に違う。
そこの具体に行ったときに、そんなに変わらないことが多い、というのは、今のルールとかはすごいわかりやすく出てる気がしますね。
麦:
たしかに。人事制度を作ろうとかね。
山田:
そう。結局、会社でやっていて、給料をみんなで公平に、納得感があるように分配しようとしたら、何かの仕組みが必要。
それを仕事で評価しようと思ったら、だいたいにおいて「結果」を出せたか、「プロセス」がどうだったか、「態度・行動」で良い振る舞いができたかとかで見に行こうとする。それを「自分」がやるのか「他の人」にやってもらうかとか、最後に給料の金額を「自分」で決めるのか、「会社」の仕組みで決めるのか。
変数はいくつか違うんだけど、やることでいったらそんなに変わらなくなる。そこに根ざしている思想は何だっけ、ということがきちんと取り扱われてることがすごく大事なので、その辺が誤解を生みやすいところだなと、今喋ってて改めて思う。
「自然経営でどうやってやればできるんですか?」っていうときに、「評価制度をこうしましょう」から入ったときの、その筋の悪さ。やり方だけ変えたところで、思想が変わってないんだとしたら全然変わらない。
「そういうところじゃないんだよ」みたいなことを、うまく扱うのは大事ですねって思いました。
麦:
なるほど、私は今ずっと氷山モデルのイメージが頭にあって、地表に表れている氷山の一角のところに注目して、「あの氷山がうまくいってるらしい」から「あれをやろう」で、うまくいってきたところもあった。
だけど、今はその下にあるところを扱っていきましょうっていう話が、やっぱりどうしてもその見えている部分を真似することでうまくいくんじゃないか、と思ってしまうのかなと感じました。
山田:
良かれと思って、組織に良いことをしたいって思ったときに、手を付けやすく思う気持ちも良く分かる。それが別に短絡的だとか、考えてないとかじゃなくて、本当に「何かを良くしたい」と思ってそこから手を打つっていうことは、良かれという想いの表れとしてすごくよくわかる。
その具体的な氷山の上をやることも、それはそれですごく大事だよっていうのはとても丁寧に扱った上で、でもその下に水面下をちゃんと耕してこそ、本来のやりたい姿で現れるっていうことは、今でも大事にしなきゃいけないとこですね。
麦:
あとは今回の話で、一番ワクワクしたポイントは、「中心」のあり方は固定的じゃなくて、そこをどういうふうに引き受けるかっていうところでで決まってくるといいんじゃないか。そこは1人じゃなくて、チームとか何人かが持つことがあり得るんじゃないかってっていう話が、自分は一番わくわくした。
最近、ヒエラルキーに対して、「トップダウンは駄目だ」「ボトムアップだ」みたいなのとか、何か中心がない世界とかっていうのが、よく聞く気がするんですけど。ある方が、「いや宇宙を見てごらんよ、中心ってあるよね」みたいな、北極星とか、太陽系の中心とか、だから「中心がないっていうのは自然なのか?」みたいな。
確かに「中心はありそうだな」と考えて、でもそれをチームでとか複数人で持つっていうのは、考えると楽しくなる感じがしました。
山田:
そうだよね。そこは本当に文化的な違いとかがある。ネガティブな感じでいくと「個が立っていない」と言われがちな民族性を日本の文化を持っていて、でも、だからこそ「集団」とか「全体」がどうすればより良くなるかにとても自然と意識を向けられる、重心を移せるしてるっていうのは、特性としてある気がする。
そうなったときに、いわゆる「リーダー」が1人いてその人が決めるモデルとは、色んな「戦略」の立て方とかも、ちょっと違ったアジャストの仕方が見えてくるといいなというのが、この自然経営研究会の活動とか、それを言葉にしようとする中で、個人的にいつも思っていることです。
僕らの民族性というか、文化性みたいなことがその中に表れると良いなと思いますね。
麦:
その中心に何があるんだろう?は探求したいなと思って、でもそれを「引き受ける」っていう言葉がすごい魅力的に感じました。
山田:
なるほど。面白いですね。なんとなく使ったその一言が響いてるっていうのが、対話してるからこそ見えてくる特徴だなと思いました。
ということで、今日は「ありがちな誤解」の2つ目として「過度に軽視する」、「リーダー」「戦略」「ルール」とかが、それは氷山モデル的なことで、上は上で大事だけど、その下も耕さなきゃいけないよねということが、今日話してる中で改めて浮かんできたことだなと思いました。
ということで麦ちゃん、今日もありがとうございました。
麦:
ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?