INFPの生きづらさ③

 いよいよこの私の性格であるINFPについて語ることも終わりが近づいてきた。
 まずは、最後の性格指向である知覚型について、この生きづらさの要因を説明していこう。

知覚型(Perception)

  順応性が高く、臨機応変。
 ルーティンワークよりも変化のある作業を好む。
 自由奔放で時間やルールにルーズ。
 優柔不断で白黒はっきりつけることが嫌い。

 私は昔から飽き性で色んなことが長続きしなかった。そういったところも、この知覚型の性格が影響していたのだろう。この知覚型においての生きづらさとはどういったものがあるのだろうか?

①優柔不断 だけど大胆

 人生では迷うことばかりだ。どっちの道を選べば電車に間に合うか、どの大学に進学するか、あの子に告白すべきかどうか、そもそもこの人生で良かったのかどうか。未来はどうなるかなんて誰にもわからない。だから大胆に行くべきなのだ。しかし、裏を返せば、未来というのはあらゆる可能性があるのだ。良いほうも悪いほうも、さまざまな可能性があるのだ。
 だから選べない。今後のあらゆる可能性や、さまざまなデータや情報を考慮して、最善の判断をすることに、必死になってしまう。そして最後は、その処理に脳内CPUが追いつかなくなり、投げやりな判断をする。それか、判断の時間を迫られ、結局何もしないまま終わる。
 正直なところ、自分が思い切って判断した結果が良かったことがない。三日三晩考えに考えた結果が上手く行ったことがない。大学も思い切ってギリギリのとこに挑戦し落ち、反対に告白しなかった相手はのちに自分が好きだったことがわかった。電車に間に合うために選んだ近道は、大きく駅を迂回し、どんどんと離れていったのだ。だから自信がない。自分の判断に自信がないのだ。
 よく面接で「あなたは当社に絶対に入社しますか?」と聞かれる。仕事で「絶対に間違い無いんだな?」と聞かれる。私はこの質問に「はい」と答えることができない。それりゃそうだ。この世界に絶対なんて存在しないのに。自分がいま入社したくてたまらなくても、それ以上に良い企業があるかもしれないではないか。間違ってない自信があっても、何か見落としてるものがあるかもしれないではないか。それなのにそういったゴミみたいな質問をしてくる。しかし、社会ではそういった確実性が大切なのだ。そういった意味で、私のような中途半端な人間には、向いていない世界なのだ。

 私はあらゆる可能性を考えて判断をにごす。しかし社会と時間は答えを求めてくる。そうして投げやりに答えた結果はうまく行かない。それがとてもつらいのだ。


②計画は嫌い でも将来は不安 
 

 私は計画を立てることが嫌いだと。ここで大切なのは苦手では無いことだ。計画通りいくことよりも、その場で臨機応変に対応していくことのほうが先であり、楽なのだ。
 もちろん、計画立てないわけではない。テスト勉強だとか、旅行の計画だとか、ある程度は立てる。しかしそれ通りに行くことなんてない。むしろ計画通りにいかないで欲しいのだ。そっちの方が面白みがある。
 しかし、これはあくまで短期的な計画の場合である。キャリアビジョン。このクソみたいな人生計画がとても苦手なのだ。何年後にこうなっていたくて、そのために今足りないのはこれで、これを克服するためにこれをして、、。こんなもの立ててなんなのだと思ってしまう。そもそも何年後にこうなっていたいとか、そんなものはない。そんなこと今考えたってわからない。それなのに、面接では社会にすら出ていない我々に対して、何年後だとか会社でやりたいことだとか聞いくる。
 大学の受験期、よく勉強をサボって友達と遊んでいた。先生は勉強しなさいと私たちに言ってきた。もちろん、どの大学に行くかで人生は大きく変わるし、受験勉強というのは人生に一度しかない。しかし、この高校の友といまこの環境で遊べるのも人生に一度しかないではないか。そういうモチベーションで生きていた。いまを楽しむことを大切にしていた。将来のことを考えるより、今目の前にあることに全力で取り組むことの方が、よっぽど大事な気がした。
 しかし、これはある意味現実逃避なのだ。将来が不安だからこそ、いまを見るしかないのだ。自分の未来を、キャリアビジョンで決めつけることが嫌なのだ。進路を決める時、就活をしている時、未来に浮かんでいるのは希望では無く不安なのだ。
 このように、計画性がないにも関わらず、将来に不安を持ってしまうのも、生きづらさの一つの要因なのだろう。


INFPであること

 INFPという性格 私の性格
 これまでまとめてきた生きづらさはほんの一部であり、いつも私の頭の中では渦巻いている。我ながに面倒な性格であると実感している。
 しかし、この性格の最も面倒くさい点は、こうした生きづらさを抱え、面倒な性格であると自覚し、時には他人に迷惑をかけているとしても、この性格を変えたい、という思いは全くないのである。
 この性格を否定し、変えてしまうことは、自分の個性を潰してしまうことであり、自分の個性を潰してしまうことは、私とって死を意味するのだ。
 たとえこの世界が私を受け入れなくても、私だけは私を愛さなければならないのだ。自分を否定するぐらいなら社会を否定する。自分が変わるぐらいなら社会を変えてやる。私の中にはほんのかすかだが、そんな闘志が宿っているのは確かだ。
 わがままで自己中心的、しかし繊細で不器用なクソみたいな自分を、愛してあげることが、私にとっての唯一の救いなのだ。

続く

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