連載第14話 野口健、2度目のエベレスト敗退
ヒマラヤのメラピークに登頂した18歳の私は、飛行場のあるルクラ村に下山した。
日本を出発してからすでに一カ月半がたった1998年9月の下旬。ちょうど大学一年の後期授業が始まる頃だった。
だが私はそこから下界に戻る飛行機に乗らず、野口健のいるエベレストを目指した。一応私は「エベレスト登山隊清掃班」としてヒマラヤに来ているのだ。
その清掃をやらずに、こっそりメラピークに登っていたことは前回で書いたが、25年たった今だから言えることだったのだ。
6476mのそのピークに登頂した後だから、高度順化ができ、体は羽が生えたように軽くなっていた。富士山とほぼ同じ標高のナムチェバザールを越え、さらに小さな村々を繋ぎ、急ぎ足で数日間歩き続けた。
モンスーンはすっかり明け、エベレストベースキャンプに続く山道からは、乾いた空気の下、よりくっきりと鋭鋒の数々が望まれた。
授業は始まっているころだったが、そんな神々しい山々を見ていると、大学がひどく遠い別の世界に思えた。
標高4300mのペリチェ村に着くと、予想外にも野口と宮上とシェルパがいた。空気の濃い場所まで、休息に降りてきたのだという。エベレストのベースキャンプは標高5300m。いるだけで少しづつ消耗していく世界なのだろう。
頬がこけた野口が、私に聞いてきた。
「メラピークは登れたのか?」
登れたと答えると、
「オレが3回かかったところを一発で登ったか。やるね」
と言った。そう言いつつも、野口は自分のエベレストのことしか頭にないようだった。かたわらにいたシェルパだと思っていた人が、いきなり、
「野口、お前もエベレスト登るしかないな」
と、自然な日本語で野口に話しかけた。
「そうですね。」
と答えた野口は、私に向かってこう続けた。
「あっ、大石に紹介してなかったな。カメラマンの村口さんだよ」
精悍な顔に色黒の顔をしたその人は、シェルパではなく、なんと日本人だった。シェルパのような高所カメラマン村口は、その半年前にすでに北側からエベレストに登頂していた。そして2カ月間の夏には、ガッシャブルムⅡ峰(8035)に登頂。今回のエベレストで、今年3回目の8000m峰の撮影となる。どおりでヒマラヤに馴染んでいるオーラがあるわけである。
痩せた野口の雰囲気も、村口に近い研ぎ澄まされた感じがあり「武蔵野シェアハウス」で酒を飲んでいた時とは別人になっているような気がした。
その夜は、すぐ隣のディンボチェ村まで散歩し、野口が「ディンボチェのママ」と呼ぶおばちゃんの家でカレーを食べた。野口は初めてヒラマヤに来た時からの知り合いだという。穏やかな顔のおばちゃんに、
「はじめてこのカレーを食べた15歳の時から10年がたったよ。でもこのエベレストで、区切りをつけたい」
と野口は言っていた。
翌日、私は先にひとりでベースキャンプに向かった。その秋、エベレストベースキャンプには、私たちを含めて3隊しか入っていなかった。最後は氷河の上に、岩が積み重なった「モレーン地帯」となったが、そこにはしっかりとした道はなく、3隊が歩いた踏み痕しかなかった。
ベースキャンプには、アドバザーの大蔵喜福とテレビ局のディレクターの志波武がいた。
ふたりとも、前年野口が敗退したエベレストの時も同行している。
「野口君は、今年は調子が良さそうだよね」
という志波の言葉に
「そう見えますね」
と大蔵は答えていた。ベテラン登山家の大蔵は冬季エベレスト北壁の「最高到達点」記録保持者である。その彼の答えに、志波は安心した様子を見せながら、
「昨年に比べると、断然天気も安定してますしね」
と言った。言葉の端々から、「今年こそは登頂してほしい」という気持ちが垣間見れた。
日本人のいないメラピークから戻ってきたせいか、私にはそれが「期待」というより野口には「プレシャー」になっているのではないだろうかと思った。野口が村に降りたのは、濃い空気を求めてというよりも、そのプレッシャーから逃れるためだったのかもしれない。
翌日ベースキャンプに戻ってきた野口は、薄い空気に体を慣らすために、今度は最終キャンプとなるサウスコル(約8000m)まで、数日間かけて往復することになった。
一応「清掃班」としてそこに来ていた私は、その間、ベースキャンプ周辺 で、少しゴミ拾いを行った(少ししかゴミを回収しなかった私だが、この2年後から、野口は本格的なエベレスト清掃登山隊を組織し、何トンものゴミを回収。その活動は評価され、ネスカフェのCMにも使われた。しかしそうなることなど、あの時の私は予想だにしていなかった。もしマジメに清掃をしていれば私の名前は歴史に刻まれ、CMにもなり、ひと財産築いていたかもしれない。だが結局、私の清掃は「清掃登山隊」としてカウントもされず、今ここに書かれるまでどこのメディアにも出ることはなった)。
このベースキャンプから山頂までは、45年前の1953年、イギリス隊が初登頂した時と同じルートだ。日本隊の初登頂は28年前の1970年だが、やはりこのルートを使っている。岩や氷の中には、サビた古い空き缶が出てきた。それを見て「環境問題」というよりも、エベレスト登山という「歴史」の上に野口がいるということに私は思いを馳せていた。
初登攀のイギリス隊は、国家を上げての登山隊だった。野口はスポンサー活動などを通じて多くの人を巻き込んではいたが、それはすでに「個人」の冒険だった。
今回の遠征は、昔のように世界の空白部を埋めるための国家レベルの冒険ではなく、高校の教室でうまく自己表現ができなかった野口の、個人としての存在意義を賭けた冒険なのだ。
サウスコルまで登り、ベースに降りてきた野口の顔と体は、さらに絞り込まれているように見えた。
「体が軽いんだよな。今回は登れそうだ」
と野口は言った。
その後、ベースキャンプで3日間休んだ後、野口はアタックをすることになった。
出発日の未明、ランタンの下、無言で朝食を食べる野口に、志波がムービーカメラを回し、大蔵が連続でカメラのシャッターを切っていた。
気軽に話かけることができない緊張感のある異様な雰囲気だった。「登れそうだ」という野口のポジティブな言葉とは逆に、私は何か重々しい、嫌な予感を覚えていた。
だが、私のそんな予感に反し、野口は3日後に最終キャンプまで余裕を持って到達した。着いた時は、まだ昼過ぎだった。
そこまで好天が続いていて、悪天を知らせるような雲もでていなかった。
翌日の未明、野口はそこから山頂を目指し出発する。
その時、急に大蔵が、私に向かって、
「野口が登頂する前日のエベレスト全景を撮っておこう。大石、一緒にカラパタールの丘まで登ろう」
と言ってきた。すでに昼すぎの時間だったが、逆にこの時間からでれば、カラパタールのてっぺんに着くころに、ちょうど夕焼けのエベレストが撮れる。
私たちはほとんど装備を持たず、カメラだけをザックに入れてカラパタールに向かった。
その丘の頂上に登りつめると、予想通り目の前に夕照のエベレストがあった。となりにはヌプツェ、プモリなどの高峰が聳えている。高度順化がしっかりとできているせいか、自分でもその目の前の高峰に登れる気がしていた。
ましてや「七大陸最高峰」という目標を掲げ、世界の山々に登り、10年の歳月を費やしてきた野口は、明日、間違いなくエベレスト山頂に立つだろう。その時はそう思った。
私にとっても、この数か月の間で起こった「スポンサー活動中のアドリブ」「スーパーでの合法的万引き」「空港荷物バラバラ事件」などのエピソードの全てが、野口のエベレスト登頂という明日に集約されるのだ。
星が出始めた空の下、ヘッドランプの灯りをたよりに私と大蔵はカラパタールを下って行った。急な斜面を下りきると大蔵が、
「これから『山屋』としてやっていくなら、ベースキャンプまで大石が先頭を歩いてみろ」
と言った。先ほどの夕景を見て、エベレストとまではいかなくとも、ヌプツェやプモリは登ってみたいと思っていた私は、「もちろん」とばかりに足早に大蔵より先を歩きはじめた。
道を間違えたとしても、後ろから大蔵が声をかけてくれるものとばかり思っていたのだ。
1時間後に大蔵が後ろから言った。
「これは来た道なのか?」
「えっ、そうだと思いますけれど……」
と、答えた時には、すでに私たちは氷河の上の迷路の中に入り込んでしまっていた。踏み後と思っていた道は、そのあとすぐに消えた。戻ってみたが、歩いてきたはずの道が、どこなのかわからなくなっていた。
そして気が付くと、煌々と輝いていた星と月は消え、あたりは霧に覆われはじめていた。それは濃霧に代わり、わずか10m先も見えなくなった。そして一気に気温が下がり始めてきた。
大蔵がいることで気が抜けていた。
当時の私には、夜間に氷河の上を歩く技術も知識もなかったのだ。ツエルト(簡易テント)はもちろん、食料も、防寒着も持っていなかった。上着のジャケットは着ていたものの、ズボンはペラペラのチノパン一枚だった。
東京の街を歩くのとほとんど同じような服装で、私は冷たい濃霧の支配する夜の氷河の上にいたのである。まさに「無知無謀の登山者」で、危機的状況に追い込まれてしまった。
岩陰で休むと、一気に体温が持ってかれた。薄着とは言え、そこまで冷えるのはおかしい。昨日までとは違う、異様な寒さだった。
天気が急転し、秋から冬に一晩で季節が一気に変わろうとしているのだ。
野口もこの時、悪天候の8000mという地獄の中にいた。
8500mまで登った野口は天気の急転に、村口と岩陰でビバークをしていたのだという。
図らずも私は、野口と同じ時に、同じような体勢で、寒さに耐えていた。
岩陰で休んでいる時、大蔵は私に冷静さを保たせるために、自分の青春時代の話などをしてくれた。「70年代の苛烈な登山の時代は、こんな登山は毎週のようにしていた」そんな大蔵の言葉は耳に入らず、私は時間が経ち、朝になることだけを待ちわびていた。「1時間くらいはたったか」そう思って腕時計を見ると10分も進んでいなかった・・・。
寒さにたまりかねて、また歩き出す。しかし、道が分からずに座り込む。
そんなことを繰り返していると、霧の向こうにぼんやりとした灯りが見えた。午前4時過ぎに、ベースキャンプのダイニングテントに入った時は、本当に命拾いをした気がした。
ダイニングテントの中、宮上と志波は一睡もしないで野口を応援していたが、私たちのことはほとんど心配していなかったらしい。
宮上は残念そうに、
「野口さん、下山しはじめっちゃたよ」
と言った。
生き延びてベースキャンプまで戻ってきた安堵感と、野口が敗退したという残念な気持ちが、私の中で交錯していた。
しばらくすると、野口の声がトランシーバーから聞こえてきた。
「吹雪の中を下山しています」
その声に重ねるように、村口が英語で
「オールホワイト、オールホワイト」
と叫んでいた。
私が耐えていた寒気よりもずっと低い氷点下何十度の世界。加えて「ジェットスストリーム」とも呼ばれる高度8000mの強風。それに乗って横殴りに吹き荒れる雪。そんな世界を想像して戦慄した。
ベースキャンプは重苦しい空気に包まれていたが、宮上がトランシーバーを手に取って言った。
「とにかく慎重に。慎重にベースキャンプまで下って下さい」
野口の二回目のエベレスト挑戦は、そこで終わった。
それから一週間後、私たちはベースキャンプを撤収した。
カトマンズに帰り着くと、ロイヤルネパール空港の飛行機の一台が壊れ、日本に帰る便は順番待ちになっていた。
スポンサーへのあいさつ回りのある野口と宮上は、別の飛行機会社の席を買い日本に帰ったが、私はカトマンズにそこから10日間ほど滞在した。
98年のカトマンズは、まだまだ混沌とした雰囲気を色濃く残ていた。旅人たちも「ヒッピー」や「世捨て人」の雰囲気があった。
私は、現地のTシャツ屋さんのお兄さんと友達になり、そこでそんな旅人たちに向かってTシャツを売りつけていた。給料はもらえなかったが、地元の人しか入らないような安い食堂で食事はおごってもらった。
ペットボトルはなく、そこでは水道水を飲んでいたが、すっかり「ネパール人化」していた私は、腹を下すことはなかった。
気が付くと、3か月の観光ビザが切れていたが、イミグレーションオフィスに行くと、一日一ドルを払うだけで大丈夫とのことだった。
おそらく日本の知人か家族に送金してもらえれば、私は他の航空会社のチケットを買い、帰国することができた。しかし、あの時それをしなかったのは、やはり日本に帰りたくなかったのだと思う。大学に入学してからネパールに向かって旅立つまで「未知の世界に向かう」という高揚感の中にた。
そのエネルギーは、まぎれもなく野口健が作りだしていたが、多額の予算をかけたエベレストも2回も失敗すると、もう次はないのかもしれなかった。
シェアハウスの住人の田附は、夏にミシシッピー河を下っていたが、おそらくもうその旅を終えていた。そして、来春からは大手建設会社に就職が決まっていた。
「Adventure」という単語は、「ad=向かう」と「venture=思い切って敢行する」という意味のから成り立っているという。
ネパール出発までの日々は、まさにヒマラヤへの旅を「敢行」することに「向かっていた」日々だった。冒険は、出国する前から始まっていたのだ。
しかし、その旅が終わった今、日本に戻ってまた再びその高揚感のある「Adventure」な日々に戻れるかが心配だった。
そんなわけで、私はずるずると帰国を先延ばしにして、カトマンズの混沌の中に身をうずめていた。
日本に帰国したのは11月も半ばのことだった。成田空港にはすでにクリスマスの飾りがあった。
「武蔵野シェアハウス」に戻ると、野口と、長尾と、田附が鍋を囲んでいた。私もそこにはいると、田附が開口一番、
「なんだその匂いは、お前それで飛行機に乗ってきたのか!!」
と言った。「乞食」あがりの長尾でさえも、変な顔をしていた。
汗と香辛料の匂いが染み込んだ体になっていることなど、全然気が付いていなかった。
翌日、至近距離にある大学にいったが、着飾った格好に髪をセットした学生たちの中で、私は完全に浮いた存在となっていた。