見出し画像

平出和也のK2西壁遭難と20年前の想い出

「8000m峰に行こう」
私のその言葉に応えてくれたのは平出和也だけだった。
21歳の時だった。
平出は私とは違う大学で、陸上部から山岳部に転部したばかりだった。
長髪で無口だった彼は、東京周辺の山岳部が集まる飲み会で異様なオーラを放っていた。
しかし、その雰囲気とは裏腹に、
「やりましょう! 絶対いきます」
と言って、親し気に顔を向けてきてくれた。


一年後の2001年10月、大学4年生の秋。私たちはチベットのチョ・オユー(8188m)にいた。
遠征をサポートしてくれたのは、お互いの大学だけだった。
7000mでさえも未知の世界だった私は、最終キャンプで高山病になりテントの中に倒れこんだ。
しかし無酸素登頂を目指していていたから、酸素ボンベは持っていなかった。
平出はスープを作り、苦しむ私に飲ませてくれた。
頭は朦朧としていたが、そこから下山しようとは全く思わなかった。
「登ってやる。絶対にやってやる」
そんな言葉しか、頭に浮かんでこなかった。平出も遠征後に書いた登山報告書に、その時のことをこう書いていた。
「登りたいんだ。登りたいんだ」

翌朝未明、満点の星空の下、山頂を目指して二人で出発した。
不思議と倦怠感はとれていて、むしろ高揚感に包まれていた。
チベット高原の赤茶色の大地に光が差し込むのを眺めながらの登攀。振り向けば、岩と氷の山々が燃えるように赤く染まっていた。
気がつくと私たちより高い場所はエベレスト山群だけになっていた。大地は眼下に広がり、それが彼方の地平線で丸みを帯びて消えていた。見上げれば、宇宙を連想させるような限りなく黒に近い青空が広がっていた。
誰もいない山頂で私たちは、抱き合って喜んだ。
その時私たちが、遠く離れたチベットの山にいることは、日本の誰も知らなかった。

その遠征の半年後、私は大学を卒業し社会人になった。二年ほど登山の専門誌の会社で働いていたが、その後は、親が経営する静岡の小さなブルーカラー会社で働くことになった。
一方の平出は、登山用具専門店の石井スポーツで働きながら世界の山々を登り続けた。

2005年、平出は谷口けいと、シブリン(6543m)北壁に登り一気に自分の限界を押し上げた。
そして2008年、二人は前人未到のカメット(7756m)南東壁も登り、権威あるピオレドール賞を受賞した。
チョ・オユー遠征の直後、野口健が私たちのために登山報告会を開いてくれたのだが、そこに谷口けいが来たのがふたりの出会いだった。そのこともあり谷口けいは、私を国内の山に連れて行ってくれた。
短い休暇を使って海外の山にも行き、平出とノースハウザーのウォッチタワーを、谷口けいとモンブランのスーパークーロワールなどを登った。彼らのおかげで私は登山を続けることができた。


だが、谷口けいは、2015年12月、北海道の山で亡くなってしまった。
私が「けいさんの生涯を書きたい」と言うと、平出は長いインタビューに応じてくれた。
その本を執筆中の2017年、平出は中島健郎とシスパーレ(7611m)に登り、二度目のピオレドール賞を受賞した。
平出の撮ってきたには動画には、
「今までの山で、一番できつい……」
とつぶやきながらも、風雪の中を進み、満身創痍で山頂を踏むシーンが収められていた。
チョ・オユーの時の「登りたいんだ。登りたいんだ」という気持ちを彼は、けいさんの死後もなお高め続けていたのだ。
「平出が山なら、こっちは原稿だ」そんな気落ちで、私は毎晩パソコンに向かった。

『太陽のかけら ピオレドールクライマー谷口けいの青春の輝き』という本を刊行した時、一番喜んでくれたのは平出だった。平出は、すぐに出版記念のトークショーを開いてくれた。無口だった学生の頃とは違い、その時、平出は華のある雰囲気で人々を魅了する言葉を発せられるようになっていた。

平出と健郎は、その後も世界の山々を登り続けた。
彼らの登攀方法は「アルパインスタイル」と呼ばれるもので、軽量化した装備で、一気に壁を登り上がるというものだった。先鋭的なスタイルだが、彼らはそれを世界の登山家が知らない未踏の壁で行い続けていた。
2019年には、ラカポシ(7788m)南壁を初登攀。それにより三度目のピオレドール賞を受賞した。
さらに2022年は、カールンコー(6,977m)北西壁を初登攀。
そして2023年は、ティリチミール(7708m)北壁を初登攀した。
特筆すべきはそんな極限の登攀であっても、ふたりはカメラを携え映像表現をし続けたことだ。ドローンも駆使した動画は、素晴らしいテレビ番組となった。
人々の心を動かしたのは、その壮大な風景ではなく、平出たちが本気の挑戦をしている情熱的な登攀シーンだった。平出の番組はどれも高視聴率をとり、回によっては異例ともいえるほど多くの再放送がなされた。
山に登らない人々までもが、彼らの挑戦に心を打たれ、日常生活を進めるエネルギーに転化していた。もちろん彼らと同じように、私もふたりから影響を受けていた。

だが、K2(8611m)西壁の登攀計画のことを発表したときの反応は、私はファンとは違っていたと思う。登攀予定のラインを見て、直観的に思ったのは「これは無理だ」
と言う事だった。
平出はチョ・オユーのあと、ガッシャーブルムII峰(8035m)、ブロードピーク(8047m)、ガッシャーブルムI峰(8068m)、エベレスト(8848m)を、健郎はチョ・オユー、マナスル(8163m)、 エベレスト(8848m)という8000m峰を登っている。
しかし、それはどれも簡単なルートを登ったもので、登山隊のカメラマンとして酸素ボンベを使っていた時もあった。いずれもアルパインスタイルによる壁の登攀ではない。
平出の計画したK2西壁のルートは、壁の「弱点」はついていたものの、氷雪がつながっていない岩の場所が何か所もある。そこは、クライミング用語でいえば、おそらくM5以上のピッチが出てくることだろう……。
私は、アラスカのハンター(4442m)北壁で、そのクラスの難易度の岩を登っていたから技術的な難しさは多少なりとも理解できた。ただそれを、じっとしていても疲労する7000m、8000mの希薄な空気の中で行うというのは、全く想像がつかなかった。
過去20年で、8000mの難壁をアルパインスタイルで登られた記録は、加藤慶信、天野和明のシシャパンマ(8027m)北壁。
スティーブ・ハウス、ヴィンス・アンダーソンのナンガバルバット(8126m)南壁。
ラルフ・ドゥイモビッツ、ガリンダ・カールセンブラウナー、竹内洋岳のシシャパンマ(8027m)南西壁。
マレク・ホレチェク、ズデニェク・ハークのガッシャブルムI峰(8080m) 南西壁。
ウエリ・シュティックのシシャパンマ南西壁とアンナプルナ(8091m)南壁。
そしてステファン・ベノア、ヤニック・グラツィアーニのアンナプルナ南壁。
わずか6チームだ。
平出と健郎が彼らより劣っているとは思わなかった。だが、K2西壁は、それらの壁よりも難しいのだ。
しかもK2は8000m後半の「超高所」。8000m前半とはかなり違う。
K2西壁を二人だけで登れば、世界の登山史を塗り替えるような大記録になる。しかし……。

私はすぐに電話をして「大丈夫なのか?」ということを話した。平出は明るいトーンで
「そういうことを言うのは、大石さんくらいですよ」
と言った。そして、
「登山専門のライターさんでも応援してくれるんですよ」
そんな風に続けた。さらに
「自分のこれまでの集大成として、行けるところまで登れればいいと思っています」
と、軽い感じで平出は話した。
その短い電話だけで私は、安心してしまった。
平出は登れるところまで登り降りてくるのだ、と。

今年(2024年)2月、平出と健郎は、静岡に来て講演会をおこなった。これまでの登山を振り返り、その実績をK2西壁に繋げたいという内容だった。私も最後の方で彼らの対談役として登壇した。
もちろん壇上では言わなかったが、その時点でもK2西壁は途中まで登って帰ってくるのだろうと私は思っていた。しかし講演会を聞いた人々は、今回もふたりは「不可能を可能にしてくれる」と感じていたのだろう。

その後、平出のK2西壁の計画は特設ページが石井スポーツによって開設され、約40もの協賛メーカーのロゴがならんだ。

https://www.ici-sports.com/lp/k2/index.html

しかし私はもともと途中で戻ってくるものと思っていたから、この時点でも、全く心配していなかった。
恐らくヒマラヤを知る登山関係者もそう思っていたのではないだろうか? だが、私を含め、そのことを公に話す人は誰もいなかった。
一方で支援者の多くは、K2西壁完登を願っていたに違いない。

遠征がはじまると、活動記録は平出のインスタグラムを通じ、スタッフにより報告された。協賛メーカーの商品が必ず掲載されていることは、これまでの平出のインスタとは違っていたが、これだけ大きなプロジェクトになればそれも当然の展開なのだろうと思った。ベースキャンプには日本人撮影スタッフも複数名いるように憶測された。
インスタによると現地では天候不順が続いていた。

https://www.instagram.com/official_kazuya_hiraide/

もうこれはトライどころか、出発もしないのだろうと私は思った。平出たちのルートはクーロワール(壁の溝状の部分)を通っており、雪が締まってないと登攀が難しいからだ。
だが、雨がぱらつく中、ふたりはラストトライに向けベースキャンプを出発した。

そしてその三日後、まず海外メディアから遭難のニュースが届いた。
その後すぐ、石井スポーツの特設ページに、
「日本時間7月27日9時33分 平出よりC2上部へ日帰りの偵察の連絡を受ける、11時30分 平出・中島が7000m地点から滑落したと一報が入りました」
との文が掲載された。
「まさか」としか思えなかった。自分たちがコントロールできるところまで登り、降りてくるはずではなかったのか?
7月30日に救助活動は中止。
いろんなことを憶測してしまい、紋々とした日が数日続いた。

何度もインスタを見返す。見えてくるのは悪天候が続いていたことだった。
インスタによると二人は「ラストトライ」前に、6700mまで高度順化のために登っていた。(「更に上部まで下見に行く予定です」との一文もあるが、その活動報告は出ていない)。
私には、その高度順化でふたりが、山頂への闘志をみなぎらせたとは、どうしても思えなかった。ただでさえ完登の可能性が低い最難級の壁に、雪が積もっているのだ……。

自分の登山経験とも照らし合わせてみた。「完登」への強い想いがなければ、私は大きな壁には踏み込めなかった。恐ろしさよりも、美しいラインを引きたいという思いが勝らなければ、冒険的な登攀はできない。
そう考えると、計画段階で「行けるところまで登れればいいと思っています」と平出が言った時に、私はもっと反応をすれば良かったのだ。「そんな登山はありえるのか?」と。
今となっては、平出がどのような気持ちでこの挑戦を始めたのかはわからない。
私に言ったのとは裏腹に「不可能を可能にしよう」と、計画段階では本気で山頂を目指していたのかもしれない。
だが西壁の現場で、あの降雪では、登頂の可能性は見えてなかったと私は思う。
それでも一大プロジェクトであるがゆえに、そこで簡単に切り上げることはできなかったのではないだろうか?
「行けるところまで登れれば」
あるいは、
「不可能を可能にする」
という主体的な気持ちは、
「行けるところまで登らなければ」
という義務感に変わっていたのではないだろうか?
石井スポーツの速報では「C2上部へ日帰りの偵察」の際に事故が起きたと書かれていたが、本気のアルパインスタイルの登攀で「偵察」などは普通行わない。大部隊であれば偵察しながら固定ロープを張ってくる方法が常套手段だが、軽量化に徹している彼らはそんなロープを持っていない。上部まで往復してもその分、体力と食料を消耗するだけなのだ。そんな、アルパインスタイルでは通常行わない「偵察」を、なぜか彼らは行っていた。
そしてその時に事故はおきた。
ふたり同時に滑落したということは、コンテ(安全確保が少ない同時登攀)をしていた時、つまり「壁の簡単な部分」で落ちたということになる。普段の二人では絶対に落ちないような氷か雪の箇所だったに違いない。しかもその時は「偵察」で、テントなどの重荷を背負っていない時だったのだ。
その状態で、そこで落ちることなど、ふたりの実力ではありえない。
山頂にはフォーカスできず、クライマーとしての「スイッチ」が入らないなかで今回の遭難が起こってしまったように、私は感じてならなかった。

私は、どうしても20年も前のチョ・オユー登山を思い出してしまう。
あの時は、日本人が誰も計画を知らない中での登山だった。
そして、ふたりで絶対に登りきってやろうと、純粋にそれだけを思っていた。

20年前のチョ・オユーと、今回のK2西壁は、難易度が全く違うだけではなかった。
遠征を取り巻く様々なものとの関係性や、山の中での心理状態も全然違っていたのだろう。

自然は人間の意思や想いとは関係なく、時に猛威をふるってくる。時に不運としか言いようのない遭難もある。しかし今回は、自然の脅威だけではなく、人間側のさまざまな要素も絡み合い、重層的な原因で遭難がおきてしまったとしか私には考えらない。
平出と健郎は自然側だけでなく、人間側のリスクをも受け入れる覚悟のうえで、冒険への情熱の発露としてK2西壁へ向かったのだと思う。

それでも……、私は平出とのチョ・オユーを思い出してしまう。ああいう誰も知らない自分たちだけの完結型の登山だけでも十分良かったんじゃないかなとも思う。挑戦とその表現は素晴らしいけれど、そんなに頑張らなくてもよかったんじゃないか、と。
背負ったものをかなぐり捨てて、ふたりは、帰ってくればよかったのだ。
生きて帰ってきて、また未知の壁に向かう話を聞きたかった……。

2001年10月、チョ・オユー山頂での平出和也(左)と私。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?