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連載第6話 シェアハウスの始まりと「どん底」の野口健

 八ヶ岳から帰りしばらくすると、私は「シェアハウス」に引っ越しをした。
 2階の4畳半の部屋はわずか17,000円。
 しかも1階のリビングを共同で使える。
 武蔵野の中央線沿線の物件としては、破格だったと思う。
 90年代末期に、こんな60年代初期のような「下宿」作りの一軒家が残っていたのは、ひとえに田附の力だったようだ。
 私が、引っ越しする前、以下のような顛末から「シェアハウス」は始まったらしい。


田附と大家との交渉

 田附は今でこそ、大手建築会社の本社ビル勤務をしているが、それまでは、建築、アパレル、芸能事務所と、さまざまな業界の「営業」でかなりの成績を残していた。
 その才覚は、亜細亜大学入試の時から見られていたらしい。
 この大学は「一芸一能」入試があった。田附は、登山家としての「一能」で入学したらしいが、大学在学中にスイスの俊峰・マッターホルンを登ることを「公約」とした。
 実績がほとんどないのに「公約」だけで入試を突破したわけだから、当時から相当に話がうまかったに違いない。

 「公約」した以上は、本当に登らなくてはならなかった。
 しかしマッターホルンのあるスイスまで行く資金がない。まずは家賃を節約するために「月々1万円代」の物件を探したが、そんなに安い物件はない。
「武蔵野周辺は、どんなに安くても3万円代です」
 どの不動産屋にもそんな感じで断られた。
 だが話法がうまいだけでなく、この人は「打たれ強い」という強みもあった。コンパで手あたり次第に女の子に声をかけて、全て断わられても何も恥ずかしいと思わないタイプの人だ。市内の不動産屋という不動産屋に
「本当はあるんでしょ!!」
 と聞き続け、最後に根負けした不動産の人が
「確か昔、下宿屋があったような……」
 と言ってその「下宿」の住所を教えてくれたそうだ。
 当時、その住所の1階にはまだ大家が住んでいた。
 そして、なんと2階にはまだ「下宿」が存続。4畳半の部屋が8部屋あり、その一つが空いていた。
 だがその下宿を閉めるつもりでいた大家は、新規で入居者をとるつもりはなかった。しかし田附は大家を説得。最後の一部屋を使わせてもらうことになった。

 こうして田附は、月々の家賃を節約。
 そして大学1年の夏、みごとマッターホルンに登頂するのである。
 大学2年生の春には、野口とヒマラヤの6000m峰へ。
 そこにも登頂。
 順風満帆だった。

 一方の野口は、その登山後に、人生をかけた恋に落ちた。
 山から降りてきた時に出会ったその女性は、とても魅力的に見えた。
 その女性も大きな山に登り、清々しい顔をしていた野口に惹かれたようだ。
 相思相愛だった。
 はじめのうちは・・・・・・。
 3か月もしないうちにその恋は破綻。
 だが、野口はその後もその女性のことを恋焦がれ続けた。毎夜、酒に酔っては、その女性のことを想った。
 人生の「冬」の時期が訪れたのだ。

「どん底」の野口健

 田附が夜のコンビニにバイトをしていると、酔っぱらった野口が毎回現れ、
「俺の人生は終わった……」
 などと言いながらも、バイトを手伝うことになる。
 泥酔した若者がレジに立っているのだから、おかしな光景なのだが、武蔵野のはずれの深夜のコンビニに客は少なく、クレームになることはなかったようだ。
 バイトが終わった後は、田附の「四畳半」に向かい朝までふたりで飲み続ける。
 普段からしゃべり続ける野口にアルコールが入っているのだから、うるさくないはずがなかった。
 2階の住人は、ひとり、またひとり、とその「下宿」から転出していった。
 1階の大家は、そんな田附と野口に対して何も言わなかった。
 というのも、大家はこの家の取り壊しを考え始めていた。
 そのため住人には出て行ってもらいたいと考えていたので、田附と野口は「渡りに船」だったのだろう。

 野口はアル中になっていた。
 その野口を置いて、田附は半年にも及ぶ海外の旅に出てしまう。
 飲み仲間がいなくなったことが幸いしたのか、田附が帰る頃、野口はアル中を克服しつつあった。
 しかし帰国した田附が驚いたのは、野口の回復ではなく、一階の大家がいなくなっていたことだった。

 大家の引っ越し先を見つけて話を聞いてみると、いよいよ下宿を取り壊し、更地にして売るプランを具体的に考え始めたという。
 ここで再び田附のトークがさく裂する。
「取り壊しなんていつでもできるじゃないですか! 壊れるまで僕が1階を高値で借りますよ! どうせ最後に売るならその分が得じゃないですか!」
 大家の住んでいた1階は10畳と8畳の部屋。そしてリビングに、台所、風呂、トイレがある。
 そこを月々6万円で、田附は借りることで交渉を成立させる(全然、高値ではない!)。
 そして野口を誘う。
「野口さん、一緒に住もう! 野口さんは、大きい10畳の部屋の方を使えばいいよ! そのかわり家賃を、野口さんが4万円、僕が2万円にしよう」
 アル中から完全には抜け出していない野口は、田附との「自宅飲み」の誘惑には勝てずに、その話に乗ってしまう。
 かくして田附は、家賃を17,000円から3,000円上げただけの2万円で、1階の快適で広い住居を手に入れたのだった。
 そして「家飲み」は1階のリビングで毎晩行われ、野口は忘れかけていた女性のことを田附に話す日々を再開させてしまう。

青いTシャツの男がくれたもの

 人生のどん底にいた野口は、当然のように勉強などしておらず、その年の大学も留年がほぼ確定となっていた。それでも「たまには」と言う感じで大学には行っていた。

 銀杏が鮮やかに紅葉するキャンパスで野口が歩いていると、「彼」はそこにいた。
 ボロボロの青いTシャツに、半ズボン。
 そしてビーチサンダルで彼は歩いていた。
 夏はもうとっくに終わっているにもかかわらずにである。
 その異様な姿に、他の学生は彼を避けて歩いていた。
 人生のどん底にいた野口は、服装も髪型も乱れていた。思えばいつも同じ服だった。だが、長袖ではある。「ここまでは堕ちてはいない」と、その時は思っていた。
 
 師走の頃、キャンパスを歩いていると、また「彼」を見てしまった。
 寒空の下、なんと同じTシャツとサンダルのままだった。「まだその恰好かよ」と野口は笑ったが、上着を着ているだけで、秋の頃と自分も何も変わっていなかった…。
 遠距離にいる元カノに、野口はまだ贈り物を送り続けていたが、彼女からの返事は全くなかった。野口の「心の時計」は止まったままだった。

 歳が明けると、キャンパスの池にはびっしりと厚い氷が張るようになった。そこで野口はまたしても「彼」に会ってしまう。あろうことか、その氷点下のなか、同じTシャツ、半ズボン、ビーチサンダル姿である。その姿に、野口は
「乞食だ……。」
 と呟いてしまった。
 他の学生は、以前よりも大きく彼を避けて歩いていた。野口も避けるようにすれ違ったが、一瞬目が合った気がした。
 もしかしたら、向こうは同じ気配を自分に感じたのだろうか? 
 いや、そうではなかった。
 野口自身が、自分を「彼」に重ね合わせてしまったところが大きかったのだ。
 自分も「乞食」のように、堕ちるところまで来ているのかもしれない……。それは衝撃的な「気づき」だった。

「気づき」からの復活

 その日を境に、野口は酒を控えるようにした。
 ずっとやめていたランニングや水泳も再開した。
 人は「上を目指せ」というようなことを言う。「夢を持て」とも言う。しかし志の高い友人や知人は、はるか先に行ってしまっていて、そこに追いつこうと思っても絶望感しか湧かなかった。
 マラソンで最後尾が、先頭集団を目指すようなものである。
 それよりも、どん底で同じレベルの者を見ることで、気が付くこともあった。「このままではいけないのだ―—。」野口は目が覚めた気持ちだった。
 気づきをくれた「彼」に感謝しながらも、もう彼を見ることはなしに、少しづつでも上を目指していきたいと野口は思った。「最後尾」集団から一歩リードした瞬間だった。
 息を切らせてランニングをしていると、「彼」と会うことは、もう絶対にない予感がしていた。いや予感ではなく、それは「決意」とも呼べるものだったのかもしれない。
 変わりつつある自分は「彼」と会ってはいけないのだ。野口は強くそう思っていた。「心の時計」の秒針が、カチカチと動き始めた気がした。
 上を見上げると、澄み渡った1月の紺碧の空が広がっていた―—。

 さわやかな気持ちで、田附とのシェアハウスに走って帰ると、玄関に薄汚れたビーチサンダルがあった。季節外れのこの時期になぜ? とは思ったが、深くは考えなかった。
 そして、リビングのドアを開けると、田附と、もう一人が座っていた。
「あっ、健ちゃん、おかえり。これからこいつも一緒に住むことになったから」
 青いTシャツ姿のその男が、ゆっくりと振り返った。
「……!!」
 野口は絶句した。
「こいつ金がないのに、3万円の家賃のところに住んでいるっていうからさ。オレの住んでた二階の四畳半を使えば良いって言ってあげたんだ」
 田附は淡々と言った。
 田附の隣に座っていたその男は、そう、あの「彼」だったのだ。
 何も考えていない田附と、にこやかにほほ笑む「彼」の前で、野口は「嫌だ」とは言えなかった。
「長尾と言います……。宜しくお願いします……」
 ぼそぼそとした「彼」の言葉の前に、野口は茫然と立ち尽くしていた―—。


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