連載第10話 巧妙に仕組まれていたエベレスト「清掃班」計画
19997年、エベレスト北面、標高7000m。
猛吹雪の中、野口健と田附秀起は極限状態で、登高を続けていた。
平地の半分以下の低酸素に加え、体感温度はマイナス20度を下回る世界。
比較的平坦なところで、ふたりが腰を下ろすと、田附は意を決して野口にこう言った。
「僕は下ります……。健ちゃん、絶対死なないでよ。」
そして、息を切らせながら、こう続けた。
「生きて帰ってくれば、次が、あるじゃん」
野口は無言でうなずいていた。
横殴りになった雪で、ゴーグルをいくら拭っても、視界が広がらない。その風雪の中を、野口は登り続けた。満身創痍だった。
腰を下ろして休むと、無意識のうちに寝てしまっていた。何分間寝ていたのだろうか。目が覚めると体は冷え切り、手足にしびれがきていた。それが限界だった。登頂しようとする意志は、完全に途切れてしまっていた。
野口は忸怩たる思いでベースキャンプに向かって下山した―—。
スポンサー候補の会社の女性会長に、野口が語ったそこまでの話は、野口が収めてきたビデオでも写されていたもので、私は知っている話だった。
だが彼が語りだした「その後」の話は、ビデオには収まっていないものだった。
ビデオを回すことができなかったのは、より厳しくなった吹雪にカメラを回すことができなくなってしまったから、ではなかった。
ある意味、吹雪よりもさらに厳しいリアリティーに野口はさらされていたのだった。
会長の前で、ワインを飲みながら、野口は訥々と下山後のことを話し始めた―—。
その時、野口は国際公募隊に参加するかたちで、エベレストに挑戦していた。今でこそ、入念なタクティクスを組む公募隊が多いものの、1997年当時、公募隊はまだ少なく、ノウハウが整っていなかった。登るタイミングは隊長によって決められるため、常連顧客が常に優先されていた。野口と田附は、自分達のリズムをつかむことも、好天をうまく利用することも最後までできなかった。
とはいえ無事に下山できたこと自体が、幸運だったと言えるのかもしれない。悪天のそのシーズン、カザフスタン隊の隊員3名、韓国隊のシェルパの1名、マレーシアのシェルパ1名、ドイツ人ガイド1名と、実に6名もの命をエベレストはのみ込んでいた。
ベースキャンプでは疲労感が、各国のメンバーを襲った。隊長と常連客のひとりだけが登頂できたことも、彼らの徒労感に追い打ちをかけていた。
下山後、ベースキャンプを撤収するまでの数日間、重たい雰囲気の中、ダイニングテントでメンバーたちは食事を共にすることになった。ある晩、ヨーロッパのメンバーの一人が、山中に散らばっていた日本のゴミのこと話しはじめた。テント、ボンベ、レトルトの食料、缶詰、ロープなど、さまざまなゴミがルート上には散らばっている。そこに印刷された日本のブランドのロゴや文字を見て、彼は日本のゴミが多い印象を受けたのだろう。他のメンバーが、同調しながら、
「日本は経済一流だけど、マナーは三流だな」
と吐き捨てるように言った。
野口は「同じ日本人でも、俺のゴミじゃねえ」と言い返そうと思ったが、その言葉をのみ込んだ。そこで言い返せば、収拾がつかなくなることは目に見えていたからだ。それに、アジアのゴミが、とりわけ日本のゴミが目だっていたのは、明らかだったからだ。
「マナーは三流」と言った登山家は、立て続けに
「お前ら日本人はヒマラヤをマント・フジにするつもりか」
と言った。1976年に世界的な登山家・ラインホルト・メスナーが来日し、富士山に登った時の感想を「ゴミの山」と言ったことが、ヨーロッパ―では有名になっているとのことだった。
日本を否定されたような気がして、野口は怒り心頭だったが、返す言葉がなかった。この瞬間、野口は、エベレストに登頂したら、その翌年からは清掃活動をしてやろうと思っていた。言葉で返せないのならば、行動で返すしかないと思ったのだ。
野口は、何も言わずに、ダイニングテントから出て自分のテントに向かった。外は相変わらず寒風が吹き荒れ、見上げた夜空には星屑一つ光っていなかった。その時、野口の頭には「環境問題」という言葉は片隅にもなかった。ただただ、「売られた喧嘩」であれば、買うしかないと思っていた。
あの時吹雪の中、田附が言った
「次が、あるじゃん」
の「次」の意味は、エベレスト「清掃」に変わっていた―—。
気が付くと、社長宅で、私たちはかなりの量のワインを飲んでいた。
野口の話にじっと耳を傾き続けていた会長だったが、高齢者とは思えないような鋭い目つきで野口にこう言ってきた。
「それで、今年はその清掃を行うつもりなの?」
間髪入れずに野口が応えた。
「登頂が第一の目的です。ですが、今回は清掃班もつけます」
そしてこう続けた。
「この大石君に、現地のシェルパとともに、ベースキャンプで清掃をやってもらいたいと思っています!」
深い彫りの顔の奥で光る野口の眼が、ギラリとこちらを見てきた。それに合わせ、会長の眼もこちらに動く。
「……!!!」
そんな話は、私は全く聞いていなかった。
だがとっさに話を合わせるしかない。なにしろ、この会長にスポンサーになってもらわなければ、野口はエベレストに行けないかもしれないのだ。
私は、会長と副社長に向かって
「ベースキャンプでも自分の体力があれば、ゴミ拾いもできると思います。」
と話を合わせていた。
「すごい自信ね」
と懐疑的な視線を向けながら答える会長に、
「近くの小金井公園を毎日走って鍛えていますから」
と言うと、会長はワイングラスを回しながら、
「あの公園くらい私も散歩で行くわよ」
と言い、こちらに向かって微笑んでくれた。
帰り道、私は野口に
「ああいうことは、打合せをしてから言ってくださいよ。何ですか? 清掃班っていうのは!」
と、食ってかかっていた。
緊張がほどけ、酔いが一気に回り、千鳥足になった野口はこう返してきた。
「あの場でいうつもりはなかった。すまん。すまん。でも話の流れで、口が滑った。でも大石はしっかり答えてくれた!」
宮上がこう続ける。
「敬語もできていたしね」
彼女の言葉を私は無視し、なおも野口に食い下がった。
「口が滑ったとかじゃなくて、先に言ってほしいということですよ!」
すると、酔った口調で、野口はこう返してきた・
「エベレストの登山期間は一か月もあるのんだぞ。その間、ベースキャンプでお前は何しているっていうんだい?ゴミ拾いでもした方がいい」
登山初心者の私は、もともと、野口と共に登頂を目指そうなどとは考えていなかった。だが、ゴミ拾いをすることなど、全然興味がなかった。
「環境問題」が大きく取り上げられている2024年の現在であれば、清掃活動をやる意義が分かっただろう。だが、1998年の当時に、「ゴミ拾い」と言われても、徒労的なイメージしか私はわかなかった。
しかし野口の方は、私と会ったその瞬間から、「清掃班」をイメージしていたのかもしれなかった。野口ははじめから私を使うために、あのキャンパスで声をかけたのか……。怒りがふつふつと自分の奥底から湧き出してきた。
所詮私は、田舎から出てきたばかりで何もしらない18歳だった。東京には幾千もの「うまい話」があり、その一つにはまってしまった。野口の隣を歩きながら、私はそう感じていた。
しかし私は「うまい話」でお金をとられたわけではなかった。エベレストに行かせてもらえるなら、ゴミ拾いをするのも良いじゃないか……。そう自分に言い聞かせようとした。
だが、入学から2カ月間、粛々と進められていた清掃班計画に乗せられていたのは、納得がいかなかった。やはり、巧妙に仕組まれた野口の策略の中で、私は踊らされていたのだ……。
その時、私たちは誰もいない夜のキャンパスを通り抜けて、大学の反対側にあるボロ一軒家に向かっていた。
突然、野口がキャンパスの芝生に倒れた。
宮上が声をかける。
「健ちゃん大丈夫?」
無意識に私は野口を殴りつけてしまったのか!? 一瞬そう思ったが、そうではなかった。野口は、酔いすぎて、つぶれていた。
空を見上げながら野口は言った。
「ゴミ拾いをしても、一か月は長い。だから大石、お前は近くの山のピークまで登ってこい。友達のシェルパつけてやるから。6000m峰なら登れる。フロバキタってやつだ、いいやつだぞ!」
またしても唐突な話に私に驚いていると、野口はこう続けた。
「アウトドアメーカーで打合せした時、お前の分の高所使用のウエアを作ってあっただろ。あれはエベレスト用だから、6000mくらいの山頂なら余裕だ!!」
仰向けで寝転がっていた野口の声は、少しづつ大きくなっていった。
「おれも18歳でヒマラヤの山頂を目指したけど、その時は登れなかった。 お前はどうかな?」
私は、またしても即答していた。
「登れるに決まってますよ!!」
野口は、自分のエベレストの登山計画に加え、清掃計画、そして私の6000m峰登頂計画まで、巧妙に策略を仕込んでいたのだった。
私と宮下は、野口を起こすと、少しだけ離れたファミマまで歩き缶ビールを何本も買った。私がボロ一軒家まで待ちきれずにその一本を開けると、宮上が、
「大石君、エベレスト使用の服だって。いいよねぇ~」
と言った。私と野口は彼女の言葉に訳もなく「ぐふっふっふっ」と二人で笑いだしていた。
(つづく)
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