連載第15話 シェアハウスに来た西尾まりと、私の旅立ち
ヒマラヤから帰ると、大学の生活はひどく味気のないのに感じられた。
流行りのファッションに合わせ同じような恰好をした亜細亜大学の学生も、芝生や噴水のある小ぎれいな大学のメインストリートも、まっすぐな校舎のビルも、カトマンズの「混沌」から戻ってきた私には、まったく美しく見えなかった。
逆に他の学生から見れば、真っ黒に日焼けし、ネパールの刺繍のワッペンをつけたフリースを着て、編み込みのショルダーバッグを下げた私は「変人」にしか見えなかったに違いない。出発前とは変わり果てた私に、仲のよかった女友達は、妙によそよそしくなった。
すでに大学の後期授業は後半に入っていて、成績は絶望的になるのは目に見えていた。私は「どん底」だった高校時代に逆戻りしてしまった気がしていた。
野口もエベレストの挑戦に疲れ果てていた。
3度目の挑戦のためにスポンサー活動はしていたが、
「エベレストだけで1年間が潰れてしまう。こんなのはもうやりたくない。このエベレストが終わったら、山を辞めてまったく違うことをやる。海がいいな。ヨットとか、のんびりできていいだろうな」
などと夢も希望もないことを言っていた。
「でも野口さんは登山家ですよね」
と私がいうと、
「オレは登山家って言ったことはない。勝手に登山家って紹介されるだけだ」
と言っていた。
マネージャーの宮上は「9月卒業」というかたちで大学からいなくなり、スポンサー活動も野口ひとりで行っていた。
そのこともモチベ―ションの低下につながっているようだった。
そんな落ち込んだ日々の中の楽しみは、夜のシェアハウスの庭での焚火だった。
鉢植えの中に廃材の木を入れて燃やし、ビールを片手に田附と毎晩話をした。
その年の夏、田附はミシシッピー河の源流部から河口まで、実に3000キロをカヌーを漕いで踏破していた。
「水平線まで続く草原の中を、あの河は雄大に流れているんだ。まわりの風景が大きいからあまり感じないけれど、けっこう早い流れなんだよ。漕がなかったとしても、毎日、何十キロも進めるんだ」
アメリカのことはその数年前に自転車でアメリカを横断した長尾も知っていて、彼も焚火に参加しては、田附の話すスケール感に共感していた。
夜も更けてくるとスポンサー活動を終えた野口が帰ってきて、
「今日もダメだった。本当にエベレストはやめようかと思う」
などと言いながら私たちの輪に入ってくるのだった。
今にして思えば、緑の森が残るとはいえ、ベッドタウンの武蔵野で、よくもどうどうと焚火ができていたと思う・・・・・・。
ある晩、焚火を起こそうとライターで火をつけると、目の前に火柱が上がり「死んだ」と思った。火は一瞬で消えたが、前髪はチリジリになった。長尾が、着火剤の油を入れすぎていたらしい……。
休みの日、大学の同期は、女の子を連れて、スキーだの、パーティーだの、ショッピングなどに行っていたが、私は田附や長尾と山ばかり行っていた。
冬の白根三山縦走に行った時は、猛吹雪の中、稜線を歩いた。そこで右の頬が風傷(軽い凍傷)になり、見た目の「怪しさ」に拍車がかかった。
大学での「どん底」感は増すばかりだった。
野口がやる気を取り戻したのは、亜細亜大学をその2年前に卒業していた女優の西尾まりが、山に興味を持ち始めたからだった。
彼女は、女優の市毛良枝と晩秋の北アルプスに行き、なぜかそこで世界最高峰を見てみたくなってしまったらしい。
そこで野口のエベレストにベースキャンプまでついて行きたいと思い、あの怪しげなシェアハウスに足を踏み込むことになったのだ。
ある日帰ってくると、野口、長尾、田附がいつものように鍋を囲んでいて、その中に西尾もいた。手振り身振りが大きくて、表現力のある人だなと、思っていたが女優とは全く知らなかった。
だいたいそのシェアハウスに来る人は、変な人ばかりなのだが、一度北アルプスに登っただけでエベレストを見てみたい、と思うのは相当変な人だと思っていた。
つまり「変人」というオーラだけで、「女優」というオーラはなかった。
「スイッチ」が入った野口に対し、私は気が抜けたままでいると、はじめから西尾には「大石君、あんた若いんでしょ! もっと動かなきゃダメでしょ!」などと言われた。
そういう自分は女優として動いているのか? と思っていたのだが、その冬からはじまったテレビドラマの「ケイゾク」でヒロインの中谷美紀の親友役で出演していて、その時は驚いた。
しかも、めちゃくちゃに演技がうまかった。
私はこれも知らなかったが、西尾は子役時代からのキャリアだったという。
野口も「スイッチ」が入るわけである。
あれから二十数年がたった2021年——。
社会人になった私が、ANAの飛行機に乗って、機内用のラジオを聞いていると、西尾の声が飛び込んできた。
西尾は、舞台とテレビ業界でバリバリに女優としての仕事を続けていた。その時の対談相手は葉加瀬太郎だった。
そして、偶然にも、野口と出会った1999年当時のことを話し始めたのだった。
彼女はこんな風に語り、当時を振り返っていた。
「(市毛良枝さんと)北アルプス行った時に、もう『世界一(エベレスト)ってどうなんだろう』って、私の中でいっちゃったんですよ。
ジャンプしちゃって。
大学の先輩で登山家の野口健さんがいらっしゃって、そういう(エベレストに挑戦しているという)話を聞いていたのもあって、『ああ、じゃあ』って。
身近でそういうところに行っている方っていないじゃないですか。
私はわかんないから、失敗した年にお話しを聞いたんで、私は
『次も行かれるんですよね?』
って、ちょっと軽く言っちゃたんですよ。だけど後から
『あのぉ・・・・・・。一回のチャレンジって結構大変なんだよね・・・・・・』
って(野口から)言われて。それを私は何も知らず
『次もやるんですよね?』
みたいに言っちゃって。
(野口は)『ああ・・・・、はぁ・・・・・・、まぁ・・・・・』みたいな。
でも(私は)『連れてってください!!!』みたいな。
そこから(野口は)『じゃあ、まあ・・・・・、やるか・・・・・・』みたいな話になって。
私はほんとに軽く言っちゃたんですけれど(武蔵野シェアハウスで)準備していくのを見て、私はなんてことを軽々しく言ってしまったんでしょ、と思って。
はい、ほんと申し訳ございませんでした、って感じで。」
私は懐かしく、飛行機が到着するまで何度も聞き直した。そして、あの頃、あのシェアハウスには、ほんとに「変な人」しか集まっていなかったのだなと再認識した。
そして、テンションの低かった野口をたたき起こしたのは、西尾だったのだと改めて思った。
モチベーションを取り戻した野口においていかれるかたちになった私だが、大学を卒業した宮上が、私にとっての「脱出口」を教えてくれた。
亜細亜大学にはアメリカ・ワシントン州の大学の1セミスター(3月から6月までの一学期)に参加できる短期留学プログラムがあるというのだ。宮上は、
「スポンサー活動をした時に、スターバックスで話したの覚えてないの?」
と言ってきたが、私はすっかり忘れていた(連載第9話参照)。
私は早速、それに参加するための筆記試験を受けてみたが結果はボロボロ。だが面接試験は、夏に毎日使っていたネパール・イングリッシュの勢いで話した。それが良かったのか、奇跡的に参加できるようになった。
ヒマラヤに続く、次の「山」はこれしかないと思った。
西尾もこのプログラムのことを知っていて、
「なんでもやってくればいいよ」
と言って、背中を押してくれた。
向かった先は地図で見ると、アメリカ合衆国の左上の端。西海岸の海に面したウエスタン・ワシントン大学だった。
そのキャンパスに着くとアジア系、ヒスパニック系、白人、黒人、と多種多様な学生がいた。そこでは自分が「浮いている」感がまったくなくなかった。
キャンパスの隅には、学生ボランティアが組織する「アウトドアセンター」があった。その一つのコースをとり、学校のプールを使ってカヌーのエスキモーロール(転覆から自力で立て直す方法)の練習もした。
その技術ができるようになると、キャンパスの前のサンワンアイランズという内海を漕いだ。
三連休を使い、泊りがけで島から島へを漕いだこともあった。
さらにノースカスケード山脈の川にも向かい、ホワイトウォーター(激流下り)にも挑戦し、見事に撃沈した。
こちらも登頂は叶わなかったが、有名なマウント・レーニア山にもアメリカ人とトライし、富士山の表高を超えるところまで登った。
そんな日本の探検部のレベルの活動を、普通の学生ができることに、アメリカのアウトドア文化の高さと、居心地の良さをずっと感じていた。
その短期留学が終わりに近づいてきた5月末、野口がエベレストに登頂して無事に帰国したというニュースが入ってきた。
亜細亜大学では、授業中に速報で登頂のニュースがアナウンスされ、校舎には「おめでとう!野口君」との横断幕がかけられ、大学新聞の一面を飾り、箱根駅伝で優勝したかのような盛り上がりだったらしい。
当時はインターネットがまだほとんど使われておらず、私は野口に国際電話をかけた。
野口は、
「ネパール側から登頂できたけれど、チベット側も登ってみたい。世界最高峰は二つあると思う」
と言ってきた。
「最高峰は二つ」などという芝居じみた言葉に、それを記者の前でもカッコつけて言っているに違いないと思った。「山を辞める」発言は完全に忘れているようだった。そして、
「今、本を書こうと思っていて、七大陸の登山記録をまとめているんだ。これまでもオレは良い文を書いてきたから、できると思う」
などと「自分でそれを言うか?」というくらいの勢いのあるポジティブな言葉が続いた。
亜細亜大学では大騒ぎだったようだが、私は野口とシェアハウスで共同生活をして身近になりすぎたせいなのか、彼の登頂を聞いて大喜びするということはなかった。
だが、間違いなく、野口の勢いには影響を受けた。
野口だけでなく、田附のカヌーと長尾の自転車の旅の話も、このアメリカで何度も思いだしていた。
短期留学が終わったら、ひと夏、自分なりの旅をこの北アメリカで行おうと私は思っていた。そして来年は、ここと地続きで、星野道夫さんが写し続けたアラスカに行き、マッキンリーに登ろうと思っていた。
三人とアメリカのおかげで、そのくらいのこと実行するのは、冒険でも何もなく、むしろ当たり前のような気がしていた。