世界をみるためのツールキット
日頃考えていることを書きました。A4で5頁ほどで、たぶん所要時間は15分程度だと思います。世界の見方を少しでも多様にする助けになりますように。
人間の認識能力
ここでは、人間の認識能力には限界があると前提します。人間は偏った経験と知識をもとに限られた時間で判断を下します。これは経営学者ハーバート・サイモンが提唱した「限定合理性」です。シンプルな経済学が想定するような「完全合理性」は、手始めの思考実験としては有意義でも、現実にはフィットせず、またツールとしてもつまらないのです。ただし、限定合理性という概念は「何も言っていない」とも言えます。何がどの程度合理的なのかわからないのです。これは個々の実証研究でそのつど検証されることになるでしょう。
認識能力の話は、現代では認知心理学を含め認知科学として飛躍的に発展しています。ここでは、詳細は教科書にゆずり、キー概念として、ヒューリスティック、直観、ステレオタイプ、エージェントについて考えましょう。
人は認知のためのリソースが限られています。そこで、省エネをすることになります。これがヒューリスティック(発見的方法)です。全体を見通しつつ、精査は避けて、重要そうなところを探索するのです。この背景を提供するのがステレオタイプ(固定観念)です。それまでの経験と知識の蓄積から、「大体こういうことではないか」との仮説(予断)を立てて、現実がそれに合うかどうか確認することになります。
しかしここには注意すべき点があります。まず、元になるデータが偏っていては、その抽出結果である直感も偏ります。また、データが偏っていなかったとしても、思い込みや乏しい経験などによって偏った結果が出ることがあります。さらに言えば、認知のためのリソースを節約するためには、現実を単純化したステレオタイプは必要悪ともいえます。このような困難のもとで、より現実に即した認識を得るにはどうすればいいのでしょうか。ここでの解決策はおそらく、「ステレオタイプ(スキーマ)の数を増やすこと」です。それによって、偏りをバランシングできるのではないか、と期待をいだくしかありません。
そのときに、「自分はバランシングをしているのだ」と自覚できる概念が「エージェント」です。これは人工知能学者マービン・ミンスキーの『心の社会』に出てくるのですが、「心」というものは単一の作動体ではなく、内部にいくつかの「エージェント」をかかえたひとつの「社会」だ、という考え方です。自分の中で葛藤をかかえたことがある人には容易に受け入れられると思います。
さて、これに関連して、「同じものをみていても違うように見える」という現象は、科学哲学の講義でもよく出てきます。これはいわゆる「アヒルウサギ」で、アヒルにもウサギにも見えるだまし絵なのですが、ポイントは観察者がアヒルやウサギを前もって知っていなければならないことです。専門用語で「観察の理論負荷性」(つまり、観察結果の意味は観察者の事前の理論や知識によって左右される)と言われます。ここからも、事前に幅広く知識や理論を念頭に置く必要があること、そしてそれにもかかわらず見落としが生じうることがわかります。詳しくは、冨田恭彦「柏木達彦」シリーズが平易に説いています。
認識の枠組みの大幅な変化
認識と科学という話題になってきましたから、トマス・クーンの『科学革命の構造』に触れるべきでしょう。同書は、パラダイムという言葉を世界中に広めたことで有名ですが、ポイントはシンプルです。「パラダイム」と呼ばれる範例的研究(認識枠組み)が現れ、それにならうかたちでたくさんの研究が量産される。これが「通常科学」の世界です。このなかで、イレギュラーな観察結果がときおり出てくることになりますが、これらは解決されるべき課題として扱われ、通常科学自体をゆるがすには到りません。しかし、この既存の理論で説明できない結果が一定量を超えると通常科学に疑念が生じ、新たな理論を求めて抗争が生じます。そして、それらのなかで、第一によりいっそう広い射程を示し、第二にこれまで無関係と思われていた事象を説明するという驚きをあたえた理論が新たな通常科学の地位を得ます。その典型が、アインシュタインによる太陽黒点の予言の的中です。
ただし、ここで注意すべきなのは、従来のパラダイムがすべて間違っていたということにはならない点です。天動説は複雑な計算のもとではあれ天体の動きを説明しましたし、ニュートン力学はざっくり言えば合っています。同書は注意深く読まれる必要があるでしょう。認知、認識についてはこれくらいにして、それがどう人間の行動に関わるかの話題に移ります。
行動はシステムに規定される
スタンフォード刑務所実験という古典的な社会心理学実験があります。これは、刑務所のセットを作って被験者を看守役と囚人役に割り当て、どのような心理的変化が起きるかを数週間測ろうとしたところ、看守役はどんどん看守のように、囚人はどんどん囚人のようになっていき、心身を害する人も出てきたことからわずか六日で中止になったというものです。これは『社会心理学キーワード』に二頁で説明されていますが、詳細は実験を指導した研究者ジンバルドーによる『ルシファー・エフェクト』に書かれています。この本の最終的テーマは「いかにして悪とたたかうか」なのですが、その悪は誰か特定の個人の属性によるものではなく、「状況によって規定される」と強調されています。かつて保守派評論家の山本七平が日本では「空気」によって物事が決まってしまうと言い、人口に膾炙しましたが(そしてこれは進歩派学者の丸山真男の主張の変奏曲なのですが)、それは日本だけの問題ではないということを示しています。
とはいえ、ことさら日本の問題として大きく見えてしまうのはなぜでしょうか。理由はふたつ考えられます。ひとつには、「西洋」の理想像ばかりが見えてしまい、それと日本の現実を比べてしまったので、あたかも日本が遅れているかのようにみえた、というものです。つまり、「比較のレベル」が平準化されていなかった可能性です。ふたつめは、戦争から戦後にいたる日本において、同質性(とみられるもの)が顕著であった可能性です。ここでは、視角・経験・情報が多元的でないがために、視野狭窄が生じることになります。「集団浅慮」、グループシンクと呼ばれる概念もここに位置づけられるでしょう。この観点からは、他国に見られるようにさまざまな属性の人を会議のメンバーにすることで同質性の罠から逃れられる、と主張されることになります。あるいは、メンバーを変えずに、役割分担を明確にするという手法もあります。典型的なのが「悪魔の代理人(弁護人)」です。これは元々、教会で誰かを昇任させるかどうかの会議で、候補者の欠点をわざわざあげつらう役目の人を指名しておく、というものです。これによって、ふだんは言えない問題点の洗い出しとオープンな検討が可能になるわけです。そのほか、同時代の知識人の問題意識を書いたものとして、小田中直樹『日本の個人主義』があります。
さて、もう少し話を一般化して、組織そのものがいかにして興亡を経るかを考えたのが開発経済学者ハーシュマンです。彼の本によれば、組織に問題があるとき、関係者には退出・発言・忠誠の三つの選択肢があります。まず、ふつうの市場で想定されるのは「退出」モデルです。消費者が企業の商品に魅力を感じなくなり、顧客をやめていくと、企業の側は改善策を考えなくてはいけません。彼によれば、シンプルな経済学ではこのルートしか考えていませんでした。しかし現実はこれだけにとどまりません。そこで出てくるのが「発言」です。関係者が組織の枠内にとどまって抗議し、あるいは発言するのです。これによって組織はふたたび活性化します。このように二つのルートがありえますが、これらが機能しすぎると、組織は改善の余裕を与えられないまま滅亡するおそれがあります。そこで大事になるのが最後の「忠誠」を誓う人々です。彼らの存在によって組織はかろうじて猶予を与えられます。
このあたりの理論については、森脇俊雄『集団・組織』というダイジェスト本で概略を知ることができます。
(ちなみに、前出のスタンフォード刑務所実験は「やらせ」だったのではないかという話があります。その場合は、いわゆる「アイヒマン実験」を念頭に置いて下さい。)
社会間で、異なるかたちで同じ機能を果たすものがある
ここで「機能的等価物」、ファンクショナル・イクイヴァレントの話をしましょう。社会Aと社会Bがあったとき、両者の違いばかりが目につきますが、どちらもひとつの社会である以上、違うかたちでありながら同じ機能を果たしているものがある、という考え方です。これは、社会メカニズムの理解や改革において、現実に即した柔軟な活動を可能にするために必須な視点です。
例を挙げましょう。社会統計で学者たちを悩ませていた問題がありました。それは欧州の高失業率と米国の低失業率です。この差を説明するいくつかの仮説はありましたが、しっくりきませんでした。そこである社会学者たちが論文を発表し、米国の高い刑務所収容率を勘案すれば米欧は差がなくなる、と主張したのです。
似たような話は日本でもあります。刑務所が知的障害者や高齢無産者の収容施設になっているという仮説です。山本譲司『獄窓記』という刑務所体験談があります。データの不備もあって完璧な説明とは言えませんが、少なくとも「公式的な」機能と「実質的な」機能の乖離に目を向ける必要があると言えるでしょう。
データの錯覚
今さっき見てきたように、データの取り方には注意が必要です。「公式的な」機能にだけ囚われていては、実態を的確に捉えられません。ここで悪名高いのが、文科省の教員勤務時間過少報告事件です。OECDの国際比較のために、文科省が教員の勤務時間を報告したのですが、一見したところ他国よりも格段に短い勤務時間で、審議会委員から「教員は怠けている」との印象を受けるにいたります。しかし、ここにはトリックがありました。休憩時間や部活指導時間が参入されていなかったのです。国際比較にはよくあることですが、異なる定義で測っている可能性に注意が必要です。
異なる物差しといえば、世論調査でも似たようなことが言えます。たとえば質問文の文言で大きく結果が変わってくるのです。これについては谷岡一郎『社会調査のウソ』が、的確に調査結果を見るためのヒントを与えてくれます。
特に、ひとつのデータでは複数の解釈が可能な場合は考えどころです。かつて麻生太郎氏が「低投票率は善政の証拠」と言っていました。これだけを切り取ればもっともな気もします。こういうときは他のデータと合わせて考える必要があります。たとえば、世論調査で「選挙に行っても何も変わらない」と多くの人が回答していることを思い出せば、印象はだいぶ変わるでしょう。
これらの話は結局統計学の話になるのですが、専門的な教科書になると、統計学というよりも統計学の基礎づけとしての数学の話が多くなります。数学を極力使わずに統計学の基本的な考え方を書いたものとしてはロウントリー『新・涙なしの統計学』に譲るとして、ここでは、さわりとして、相関関係、因果関係、疑似相関(第三の変数)、媒介変数、単位同質性、逆向きの因果関係について押さえておきます。
まず、変数Aと変数Bがともに変化するとき、相関関係(正確には共変関係)があるといいます。そしてこの二つの変数の相関が時間的なラグを伴うとき、因果関係があると普通は見なされます。しかし、相関関係や因果関係が偽のものである可能性があります。これが疑似相関です。つまり、第三の変数CがAとB双方に影響しているときには、AとBに見かけ上の相関関係はあっても、実際には関係は存在しない、ということになります。
相関関係があるが因果関係の判断に注意すべき例として、たとえば出産を見てみましょう。結婚と出産には相関関係が見られます。ここから、少子化対策として結婚が奨励されることがあります。しかし実際には、将来の見通しが立って初めて結婚にいたる場合が多いと考えられます。このとき、主たる要因は将来の見通しの安定であって、結婚じたいは「媒介変数」である、ということになります。
なお、時間的な前後関係が判然としないときは、AとBの関係において、どちらが原因でどちらが結果かわからない事態が生じえます。ここで因果の実際が想定とひっくり返っているのが、逆向きの因果関係です。俗にいうニワトリとタマゴの話ですが、これが外交プロセスの話などになると相当厄介なことになります。
最後に、統計学的思考は「単位同質性」、ユニット・ホモジェニティという重要な仮定の上に成り立っていることを確認したいと思います。統計学では十分な数のサンプルを集めて解析にかけますが、それは各サンプル(単位)の内部構造、とりわけ因果メカニズムが同質であることを前提としている、ということです。この辺りの事情はキングらの『社会科学のリサーチデザイン』などを読んでください。なお、具体例を通じて因果関係のあやを身につけたい方には、植原亮『思考力改善ドリル』があります。これに関連して、経済学などで流行っている「自然実験」という因果推論の考え方は、牧野百恵『ジェンダー格差』でいろいろ紹介されています。
意図せざる結果
昔の社会学者マートンが言い始めた概念に、「意図せざる結果」があります。最近の例を挙げましょう。米国では、オピオイド(医療用大麻)は致死性が低いとして解禁されました。これによって気持ちが落ち着く人が増えるはずでした。しかし、オピオイドを飲んだ人は集中力が散漫になり、自動車事故を起こして何人もが亡くなりました。予想外の事態でした。このように、アクターが意図しなかった結果が、アクターの行為によってもたらされることを指して「意図せざる結果」と言います。これは社会科学において「機能的等価物」と並んで重要な概念です。人間の行為がそのまま思った通りに実現するとは限らないということ、これは人間の認識と行動の限界として肝に銘じなければなりません。我々は浅はかなのです。
最後に、思考実験と限界事例を紹介するつもりでしたが、下手な文章しか思いつかないので、今回はやめておきます。ただしとても大切な考え方ですから、どこかで見慣れて下さい。この関連では、さしあたって伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』が、動物という一見人間とは無関係な話題から倫理学のホットトピックを導き出している点で、一読に値します。
補遺
補遺1 https://note.com/endoucom/n/ncf25827410d8
補遺2 https://note.com/endoucom/n/n924f32d65b35