病との闘いというのは相場での闘いと非常によく似ている

あれから約4年もの歳月が経つ。
しばらく見ない間に相場もかなり変わったように思えるが。容態もだいぶ落ちついてきたため久しぶりに文章を書こうと思う。まだ完全に完治したわけではないため、病のことについて少し話していこうかと思っているが。
以前の記事にも少し書いたが約4年前病院の検査にて膵臓に厄介なものが見つかった。とはいえ年齢が年齢なだけに私自身覚悟もしていたため大した驚きではなかったが。むしろ私が驚いたのは私以上に家族や周りの者たちの方が不安や恐怖の表情をしていたことである。
心配してくれるのはありがたいことではあるが、家族の悲しそうな顔を見ると私自身も悲しくなるのもまた事実である。
だがそれにより私自身の気持ちが変わったと言っても過言ではないかもしれん。それまでは死ぬことなどとっくに覚悟していたが、どうせならば足掻いてやろうという気持ちにさせられたからである。
とはいえほぼステージ4に近い状況で一体何ができようか。
どこまで足掻くことができるのか、もはや分からん状況でもあった。
医者には抗がん剤で治療することを勧められたが。
だが私は自身の年齢や残された僅かな体力を考えると確実に抗がん剤がガン細胞を殺すよりも先に私自身の方が殺されるのは明白であった。
短期決戦を選ぶか長期決戦を選ぶか人によって状況は変わるとは思うが。
選択を間違えればほぼ確実に死につながることは、もはや明白であった。
私は自身の年齢や残されたわずかな体力を考えると抗がん剤という選択肢はない。
長期決戦にはなるが自然療法を選択することを決意した。
ガン細胞の増殖を抑えつつも、自身の体力を残さなければならない食事療法など常にギリギリのバランスを考えさせられる生活を続けなければならなかった。まだ完全に完治したわけではないがガン細胞の縮小や消失により私の体力とバランス関係が逆転しつつある。
とはいえ油断ができないのは病も相場も同じである。
何があってもおかしくはない。
常にあらゆる状況になり得ることを想定しておかなければならない。
闘病生活で感じたことがある。
病との闘いは相場との闘いに非常によく似ている。
自身が置かれている状況によってリスクの取り方が全く変わってくるということ。いかにリスクを考慮し選択ができるか、そしてそれ以上に重要なことは、決して選んではいけない選択肢を排除できるか
それが生死に直結するということ。
どれだけの者たちがこの文章を見てくれているかは分からんが。この文章を見てくれている者たちに伝えたいことがあるとするならば。
諺で覆水盆に返らずという言葉がある。この言葉を聞いて何を感じるかは人それぞれだとは思うが。
ワクチンに関しても抗がん剤に関しても決して打たないという選択肢を選べるかどうかもその者の裁量次第である。そもそも得体の知れぬ物を人体に入れるべきではないという判断は決して難しくはない選択である。人生というのは実に多くの選択を余儀なくされる。しかし決して忘れてはならぬのは己の人生は自身が選択すべきだということ。世間や周りに流されて盲目になってはならない。
決断というのは時として取り返しがつかないことがある。
たとえ泣こうが喚こうが結果を元通りにすることなど出来ないということ。
とはいえ人は神ではない。ゆえに常に最善の選択肢を選び続けることなど不可能なのもまた事実である。しかし、そもそも最善である必要はないのである。
それよりも遥かに重要なことは破滅するような行為や最悪の状況を招きかねない選択肢や可能性を排除することの方が遥かに重要だということ。
難しいと思う者もおるかもしれんが、難しく考える必要はない。要は普通に考えてやってはいけないことをやらなければ良いだけの話である。そしてそれは最善の選択肢を選ぶよりも遥かに重要であり、最善の選択肢を追い求めるよりも遥かに容易であるということ。
これは日常生活に限らず相場においても同じである。
最善の一手を追い求めるのではなく、最悪の一手をしないことの方が遥かに重要だということ。派手な技やパフォーマンスに人々が魅了される気持ちも分からなくはないが、決して基本をおろそかにしてはならない。基本をないがしろにしたその先に極致など存在せぬということ。極致というものは常に基本のその先にのみ存在しうるということを決して忘れてはならない。
これは相場に限らず格闘技やスポーツなど全てに通ずる理である。
話が長くなってしまった。
久しぶりに文章を書いてみたが、以前のようにトレードを再開できるかどうかはまだはっきり分からん。
他の検査では脳の狭窄も見つかったため、おそらく脳に負荷がかかる重心を多用するのは不可能であろう。
重心が封じられるということは片腕をもがれたに等しい。
もはや片腕をもがれた老いぼれから学ぶことなどないと思う者もおるかもしれんが、それでも相場というのはアルゴや基本の技術だけでも十分に立ち回ることはできる。
復帰はいつになるか分からん、その時はおそらく海外口座になるとは思うが。
以前の記事で少し話したが国内だと規制により100Lotまでしか打てないゆえにポジションを持とうとするには決済しなければならなかった、凍結されないだけマシだと思ってはいたもののやはり内心不満ではあった。しかし現在は20Lotに規制されていることからもう国内ではやれん。また国内口座は出金手続きも遅すぎるゆえにもう国内ではやらん。
海外口座だとどこでやるかはまだ決めてないが、おそらくアルゴの記事に書いている証券会社を使うことになるとは思う。またその際はビットウォレットのアカウントを持っていればあらゆる通貨での高速での入金や出金が可能となる。出金速度の速さや保有資金率などから考慮してもあの証券会社ならば潰れる可能性はほぼないに等しいと言える。おそらく一番無難で堅実な選択肢であろう。
ブランクが長いため海外口座に慣れるまで時間がかかるかもしれんが、注文方法の数に関しても取引できる銘柄の多さに関しても追い証が発生することのないゼロカットのシステムに関してもそうである、ゼロカットのシステムならば、たとえ予期せぬようなとてつもない相場の動きが起こったとしても相場で借金を抱えてしまうという最悪の可能性を常に排除できる。そう考えるとあらゆる面で海外口座の方が国内口座よりも遥かに優秀と言わざるを得ない。
以前私が国内口座の方を推奨していたのは海外口座は出金関連で問題のあるブローカーが数多くあったからであるが。私が以前アルゴの記事に書いた証券会社ならば、おそらくその心配は皆無であろう。私自身が自ら何度も確認し出金速度も他とは比べものにならんほど速いことや実際に私の周囲の相場に携わっている現役トップクラスの者たちも多くがあの証券会社を利用していることからもほぼ問題はないと言えよう。また海外口座だと持てるLotも国内とは異なるため前回のチャレンジを遥かに凌駕する速度での到達になるかもしれんが、それはそれで構わん。
病による衰弱で一時は死を覚悟していた私であったが、再び皆と共に相場へ参戦する機会を与えられたこと。そして心配してくれていた全ての者たちに心から感謝している。
あれから約4年もの歳月が経った今、一体どれだけの者が退場せずに行き残っているかは分からないが、私もじきに参戦する。現在も退場せずに生き残っている者たちがいることを心から願っている。
世間では才能があるなしでその者を評価する傾向があるが、そんなものを気にする必要などない。
何故なら人にはそれぞれ得意分野や苦手分野があって当然だからである。
しかし昨今では世間の間違った評価基準や考え方の押し付けにより、個人の持つ才能が見えにくくなっていることもまた事実である。
そして己自身の才能に気付けない者も多い。
周りの評価など気にする必要などないのである。己自身を信じ大切にすること。この世に才能のない者など一人としていない。全ての者が唯一無二の存在であるということ。
そして忘れないでもらいたいのは例えこの先どんなに力や権力を手に入れたとしても他人を見下すような者にはならないでもらいたい。
真の実力者というのは決して他人を見下したりしないということ。
他人を見下したり、力を誇示したり、金を見せびらかしたりしているのは中途半端な力や中途半端な金を持って浮ついた者くらいである。おそらく一流とは名ばかりで長くは続かんであろう者も多い。また敵を作り過ぎて予期せぬところから足元をすくわれることも多かろう。
そもそも他者を見下したり、力や金を見せびらかし他者の嫉妬心を煽ったりすることの何が楽しいのであろうか。そんなことをしたところで、むなしいだけである。
そういった者達はおそらく自信がないのかもしれぬ、それ故に他者からの羨望や他者から認められたいという欲求にかられているのかもしれんが。
しかしそれはもはや逆効果ではなかろうか。
他者からの羨望を求めて他者の嫉妬心をむやみに煽ったり、自身を大きくみせるために他者を見下したりしておる時点で、もはや己自身に自信がなく実力がないことを自己紹介しているようなものである。
真の実力者とは決して他人を見下すようなことはせぬ。それ故に自然と真の実力者や人格者が集まってくる。
むやみに敵を作っていいことなど1つもないのである。
人は自身と異なる考えや性質を持つ者を異端と見なし敬遠し、排他する傾向がある、しかし人はそれぞれ考え方が違って当然なのである。
生まれた環境や家庭状況など様々な目に見えぬ背景があるからだ。
故に自分と性質が違うからといってむやみに頭から否定するのではなく、あらゆる可能性を否定しない。そして別に肯定をする必要もない。
自身が必要だと思う物を取り入れて己の糧としていけばよいだけのことであるからだ。
また人は変化を恐れる生き物でもある。それ故に凝り固まった考え方や価値観を未だに当たり前として押し付ける者も多い。
しかし古くから生物というのは進化を重ねて生存してきた、その一方で環境や状況の変化に対応できず柔軟な進化を遂げることができなかった生物は淘汰されてきた。
相場に限らず現代の生活でも同じである。凝り固まった考えで柔軟に対応できなくなったら次第に淘汰されてしまうこともありうる。否定というものは進化を妨げる最も大きな要因となりうる。
未だに世間では古い考え方を若い者に押し付ける者も多い。しかしそれは間違いである。年上や年下などは関係ない。そして人であろうが動物であろうが関係ない。学べることがあるのならば年下であろうと人であろうと動物であろうとあらゆるものが師になりうるということ。
私は以前、鷹が獲物を狩る瞬間に見入ってしまったことがある。
遥か上空より獲物を見定めてはいるものの決して無闇に突っ込むような真似はせず、ひたすらチャンスがくるまで遥か上空よりゆったりと旋回を続ける、しかしその間片時も獲物からは目を離さない、さらに周りの状況などを見定めて最も成功率が高い瞬間を決して見逃すことなく、そして一瞬も躊躇することなく滑空していく。そして驚くべきは自身が狙っている獲物、そしてその獲物を追いかけている別の獲物の存在やその動きさえも冷静に把握して自身の狩りを成功させる。その知能と冷静な状況判断能力そして極限まで労力を無駄にしない見事なまでの狩りに見入ってしまった記憶がある。
私は昔から自然の中に身を置くことが好きであった。
自然というのは良いことも悪いことも含めて実に多くのことを教えてくれるからだ。
また年配者と若者のやりとりから学ぶことも多い。
現在私の敷地内では建物を増設しているため実に多くの者たちが出入りしている。
私は建物が出来上がっていく過程を見るために、たまに様子を見に行くがそこで職人たちの会話が聞こえてくることがある。
年配の職人と若い職人のやりとりだったが。
おそらく年配の職人の方が道具を忘れてしまったのであろう。
そこに若い職人が自身の道具を貸そうとしたのであろうが
年配の職人は一向にそれを借りようともせず頑なに自身の道具でやろうとしていた。
おそらく自身の道具しか使わんという、こだわりがあるのかは知らんが。
その様子を見て何とも形容しがたい感情になった。
プライドやこだわりなどは捨てて素直に道具を借りた方が遥かに作業の効率も良いのではなかろうかと。
確かに道具には代用できるものもあるかもしれんが、しかし適した用途というものもあるだろう。
例えば+のネジを回すのに-のドライバーで回せなくもないであろうが。
やりやすさや作業効率などを考えると、やはり用途に適した+のドライバーを使う方が遥かに効率が良いのではなかろうか。
結局その年配者の職人は終始頑なに自身の道具だけで作業していたようであったが作業効率が悪いのか非常にやりにくそうに作業をしていた。
おそらく年長者としてのプライドみたいなものがあったのかは知らんが。
世の中には己の信念を貫くことを美徳と考える者も多い。
しかし別に己の信念を曲げずとも目的のために手段や方法を変えることは負けでも何でもない。むしろ合理的な判断である。
年上や年下などと見えない心の壁を作るのではなく。広い心と余裕を持ち、何事も否定から入るのではなく、年齢や立場など関係なく相手の言葉に耳を傾けてやってほしいものである。
話しが長くなってしまったが。
年を重ねるとつい余計なことまで話してしまったが悪い癖である。
要はこの先どれだけ立場が強くなって金や力を持ったとしても、他人を見下すような者にはなってほしくないということが言いたかっただけである。
特に二代目や三代目などと代々世襲してきた者は苦労することもなく何一つ不自由なく育ってきた者が多いのも事実である。そして当たり前のように他者を見下して育ってきた者も多い。親や育ってきた環境にもよるが。
無論それに関してはとやかく言うつもりもないが。
せめて自身の身近な存在、子や孫の幸せのためを思うのならば健全に導いてやってほしいとは切に思う。
年をとると余計なことばかり話してしまったが老いぼれのたわいもない話しと聞き流してもらっても構わん。
話しがそれてしまったが復帰がいつになるかは容態次第ではあるが、また記事を書いていくつもりである。
とりあえず今は治療に専念させてもらう。
命にかかわる大病を患うと日々の時間がゆっくりと流れる。時間の感覚というものは実に不思議なものである。若き頃は1日1日が瞬く間に過ぎていたものだが、今では1日1日がまるで悠久の時を過ごしているかのようにも感じる。1日1日がゆっくりと流れ今までの人生を思い出す。医者からは酒もタバコも禁じられているため余計に時間の流れが遅く感じるのかもしれん。
今では屋敷の敷地内をゆっくりと散歩し池の鯉を眺め夜は月を肴に、わずかばかりの酒を呑む。何気ない日常であるが人生を振り返るには十分過ぎる。
今は敷地内に数十名規模が宿泊できる建物を建設中であるがその様を見るのもまた一つの楽しみではある。
この建物は本館にも繋がるようにするつもりである。この建物は誰もが気軽に宿泊できるようにするつもりだ。宿泊費も食費も一切必要ない。カバン一つで泊まりに来れるような宿泊施設だ。
むろんネット環境に関しても心配は不要である。PCなどの通信機器は上質なものを数多く備えつける予定である。食事に関しても常に使用人が常駐しているため何の心配もいらん。
懸念があるとすれば娯楽がないことくらいであるが、私が住んでいる場所は山間部にあるため普段は使用人や宅配業者くらいしか出入りがない。親族に関しても盆や正月くらいで年に数回来るか来ないかぐらいである。つまり娯楽と呼べるものがほとんどない。
町まで出ればあるにはあるが車でも約20分はかかるため利便性が悪いことが唯一の懸念ではあるが、敷地内には使っていない車も常時7~8台は置いてあるため好きに使ってもらって構わん。
私はフォロワーに会ってみたいのである。何気ない世間話で構わん。世界には私が知らぬ業種も多い。どのような人生を歩んできたのか、どんなことがあったのか、経験したことや楽しかったこと、驚いたことなど何でも構わん。色々な話を聞いてみたいのである。何気ない話でも私にとってはこの上ない楽しみである。建物が完成するのが楽しみだが。とはいえ利便性が悪いところであるが故に需要があるかは分からんが。

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