「小学館児童出版文化賞」受賞!
9月14日、6時過ぎにTELが入り、私の『風さわぐ北のまちから』の受章が決まった、との知らせを受けました。ええっ、ほんとですか?4時まで待って、何もTELがないので、ダメだったのだと思いこんで、夕食をすませ、読書してました、と答えてしまいました。
昨年1年間に数千冊の児童書・絵本等が出版された中で、私の作品が、賞の最終候補10作の中に入っている、という知らせを頂いた時、私はビックリ仰天しました。78年も昔の、戦後の引き揚げの話ですから、今の時代に そぐわなくて、目に留まるはずもないと、思っていたのです。
でも、同時に、私にとっては20代後半から、これだけは書き残しておかなくては、という気持ちに駆られて、何度も挑戦をし直し、前にも書きましたように、6回目の出版物であり、同じ主題を追いかけ、書き直してきたものですから、ようやく私の生涯の課題を終えた思いがして、感無量でした。
終戦時、5歳であった私が、どうしても忘れられない場面が頭に残っていました。他の色々な疑問については、母に問い続けましたが、この場面については、一度も問うことができませんでした。
その場面とは、5歳の8月末に、敗戦まで父が勤めた商工学校の広い官舎に住んでいたのが、そこから追い出されることになったのです。母と兄たちは、必要品だけ選り分け、不要品はすべてを、庭で大たき火をして、そこへ
ぶちこんで燃やしていました。私たち四人姉妹の大量の雛人形や抱き人形類もすべて、豪華で綺麗なな衣装のまま、火にぶち込まれているのを、私は応接間の窓から見つめながら、泣いていました。
それらの雛人形は、日本の倉敷の田舎に住む祖父が、孫娘が生まれるたびに買い足して送ってくれたもので、手仕事の好きな父が、天井近くまで11段ものひな壇にしてくれて、たくさんの飾り物があったのです。
そのとき、私の涙目に、垣根のところで、白いものがヒラヒラいくつも動いているのが見えました。目をぬぐってよく見ると、それは近くの界隈から集まってきた、白いチョゴリの朝鮮の人たちが、垣根の間から手を伸ばして、なんとかして、こぼれ落ちてきた物を拾おうとしているのだと、見てとれました。(なだれこんで、力尽くでも奪おうとしなかったのは、商工学校の 教師であった父への尊敬があったためなのだと、後に気づきました)
私はこの時、母に叫びたくなりました。「あの人たち、あんなに欲しがっているのに、どうしてあげないの?燃やさないで、あげればいいじゃない!」と。でも私は物言わぬ子でした。未熟児で生まれ、皮膚異常と毎晩おねしょをしてしまう私を、優秀な兄姉や、私の倍の体重で生まれた健康そのものの妹とくらべては、もてあまし、私に手をかけるのも、母は毛嫌いしているのがわかっていましたから。
でも、この場面が私の心に、深く残ってしまい、20代半ばに、引き揚げ時の頃の話を書き残そうと思い、大学の東洋史教授を訪れ、朝鮮関係の資料本を紹介してほしいとお願いしました。笑顔を見たことのないほど怖い印象の教授に、何に使うのかと訊かれ、私はおずおずと5歳の時の「大たき火」の話をし、あの時の母の態度と、朝鮮の人達の関係は何だったのか知りたいのですと答えました。先生はすぐに立ち上がると、厚さ7cmの年鑑や小冊子 その他数冊を「無期限でいいから」と口添えして、貸して下さいました。 以後、先生は私の作品をそのたび読んで下さり、励まし、お亡くなりになるまでずっと手紙で応援し続けてくれました。
そして、私は何度も書き続けるうち、あの時の母の姿は、her last stand = 最後の抵抗・プライドと意地であったのだと思えるようになりました。戦争には負けたが、日本人である誇りと意地で、彼らには渡したくない、やるものか、という思いで、まるで見せびらかすように、豪華品まで燃やしてしまったのでしょう。その後、キムおじさんやオモニに助けてもらううちに、母はずいぶん変わりましたが。
私は中学高校生の頃、母への反感が募って、激しい反抗をしましたが、この物語を6度も書き直すうちに、母の粘り強さと知恵と、あの困難な時代に、子どもたちを守り通そうとした深い愛を感じ、母をより深く愛おしく思うようになり、身近に取り戻した気がしたものです。
このたびの受章は思いがけないものでしたが、私の長年の取り組みへの功労賞のように思えて、本当に有り難く感謝の思いでいっぱいになりました。
11月9日に授章式と祝賀会があり、そのための準備が早くも始まっていて、毎日大変忙しい思いをしております。昼寝もできない日があったり、散歩は2000歩だったりですが、せめて3000歩は越えたいと、月と星を見ながらジグザグ歩きをして、歩数を増やしたりしております。
嬉しいご報告ができて、嬉しいです!