(40) (番外編)遺したい話
寝つくことの多くなってきた夫が、ベッドで私の『おはなし玉手箱』私家版を、最初から読み直していた時、こんな話もあるよ、書いておくといいかも・・、と言い出した。
それはもう30年ほど前のこと。めずらしく大学の会議が長引いて、最終バスに間に合わず、夫は八王子駅からタクシーに乗ったことがあった。自宅近くで、降りる準備をしていると、自分の座っているシートの端に、1万円札が落ちているのに気づいた。
運転手さんにそのことを話すと、
「お客さんが拾ったのだから、お客さんがどうにかしてください」と言われた。
「それでは、ぼくが明日警察へ届けておきます。6ヶ月経って,警察から連絡がきたら、折半しましょう」
と夫は申し出て、運転手の住所を訊いておいた。大横町近辺の人だったという。
そして、6ヶ月後、ほんとうに警察から「届け人なし。1万円を受け取りに来られたし」という意味の封書が届いた。
夫は当時、自転車で山すそから街中まで、暇をみつけては走りまわるのを、楽しみにしていた頃だったので、住所を地図で探して、5千円を届けにその人のお宅まで出かけて行った。
運転手ゆえ、昼間はるすで、夫は5千円入りの封筒に、名前と住所を表書きし,五千円を入れた経緯の説明文のメモも加えて、郵便受けに入れてきた。
するとその翌日に、運転手が家まで訪ねて来てくれて、菓子折を差し出された。たったの5千円のことで、と恐縮してしまい、夫は受け取るのを、しばし ためらった。
すると運転手がこう言った。
「もう24年タクシー運転してますが、こんなことは初めてでしたんで。 車内で金を拾って、届けることになって、折半しようと約束したことは何度もあったんですけど、本当に実行してくれたのは、お宅が初めてでした。そりゃあ嬉しかったですよ」と。
気持ちのいい運転手だったよ、どうしてるかなあ、いまごろ、と言って夫は話し終えた。いかにも夫らしかった。
私はこの一部始終を聞いた事があるはずなのに、完全に忘れてしまっていた。こんな運転手さんがいらしたのだ、と改めて目を開かされた思いがして、書き残しておきたくなった。最初の宣告から3年永らえ、これで3度目の宣告を受けている夫自身の話なのだから・・。
★さもない小さな話を、いつも読んで頂き,スキやコメントを下さって、本当に有り難うございます。次回から「おはなし玉手箱 3」に入ります。引き続き、お目通し頂けますよう、計100話に達するまで、毎朝なんとか続けられたら、と祈りながら、夢みております。これからも訪ねて頂けますように!