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5章(9) HS入所と彼・看護婦長の慈悲
あなたが〈ぶっつけ本番〉で書き流した物語を、最初に読ませてくれて有り難う! 分りにくかった箇所を数カ所指摘したら、それを次のノートで説明してくれて、そんな事実があったの、と目を開かされました。
私は「入所」と言う言葉が、〈患者として療養所に入ること〉か〈医療技師の研究生として、研究所にはいること〉なのかがわからなかった。「長い間来ることを願い続け」ということが、あなたの説明によると:
「入所」とは「療養所に患者として入ること」であり、当時は「ベッドひとつに百人待っているといわれ、結核患者のメッカである清瀬の国立療養所に入ることは、針の目を潜り抜けるほど、大変な事だった」あなたが日赤を退院後、約半年、母上のアパートで待機して、ついに療養所からの知らせが来た時、信じられないほど嬉しかったのね。その時点では、病気を治すことより、入所して生活保護がもらえ、飢え死にせずにすむこと、生きる道を得られた事が大変なことだったのですね。
ソウル生まれのあなたが、敗戦後16歳で日本へ引揚げ、住む家なく掘っ立て小屋で重い結核となり、日赤に入院できただけでも奇跡だったのね。
あなたの亡くなった夫君の,当時の描写場面に胸が詰まり、涙があふれました。肋骨を何本も折る、難しい手術を受けた当日に、誰も身寄りのない彼は、夜トイレに行くのに、壁にやっとつかまって、10センチずつ移動しながら行く姿を見て、夜勤の婦長さんが哀れんで、その後、彼が病院を転々として、手術をくり返すたびに、その婦長さんが、なんとかややりくりして、各病院へ看病しに来てくれたそうね。その人は、終電に遅れて、ベッドとベッドの間の板の上に寝たこともあるほど、心から彼を看病し続けてくださったんだ。こんな人もいたんだね。その人は、布団も縫ってくれて、その布団はぼろっちいけど、今も大切に保存してあるって。想像しただけで、有り難すぎて、涙がこぼれたわ。
彼はアルバムの第1ぺーじに、その婦長さんの写真を貼ってあるのね。あなたはずっとその婦長さんにお歳暮を欠かしたことはないけど、夫君が亡くなられたあと、婦長さんの娘さんとの行き違いがあって、ご縁が切れてしまったそうね。それでも、毎年お茶を送ったり、お子さんに絵本を送ったり、お歳暮も送ったけれど、なしのつぶてのため、今年30何年来、ついに送るのはやめたそうだけど、夫君もそれは仕方ないことと、思ってくださるわ。
あなたの子どもっぽい潔癖さのせいで、夫君に初めて抱き寄せられた時、突き飛ばしてしまった! その気持ち、わかる。私も同じパターンだったから。 でも、そのあと、2人で謝りあって、また関係が続いて、ついに結婚にまで辿り着けたのがいいな。彼は天涯孤独、というのではなく、彼の戸籍の〈父親欄〉が空白で「それでもいいか?」と結婚前に訊かれたのね。そんなこと本人とは関わりないから「いいよ」と答えたけど、彼がとても辛そうだったから、事情は聞かないまま過ぎてしまい、わからないままになってるのね。彼には、腹違いの兄や姉がいるそうだけど、つきあいはほとんどなく過ごしてきて、1人だけ残っている姉上に、あなたは今もお歳暮を贈っているのね。
読み終えて、ジンと余韻の残る、綴じるのがほんとに惜しくなる作品でした。ひとつの青春と二つの人生 (夫君と医療技術を教えてくれたO氏の) が、哀切と尊敬をこめて描かれているのが、印象的でした。とても正直に書いてありますもの。私が疑問点を挙げた部分が、あなたが書き直す時に役立つと言ってくれて、このノートの意義を改めて思いました。楽しみにしています。