(173) 用心
車の行き交う大和田橋から浅川沿いの道に入ると,美鈴はペダルをこぐ速度を緩めます。汗ばんだ肌に、川風が心地よくかすめます。快適なこのサイクリングロードは、美鈴が朝夕楽しんでいる通学路でした。
一本道の右手の草むらに、男の人が背を見せて座っていました。薄汚れた作業服が近づくにつれ,美鈴はドキドキして、自転車を急がせました。土手の上には、この人と美鈴だけです。
不意にふり向いて襲ってくるかも。 身構えたのは、中学生の頃、塾帰りに追いかけられた恐ろしさが忘れられないのでした。
何事もなく行き過ぎて、ほっとして美鈴は振り返りました。今度こそ本当にドキリと胸が鳴りました。その人が、草の上でもがいていました。
病気なんだ、あの人!
美鈴は急ブレーキで、駆けもどりました。
「痛みますか? 救急車を呼びましょうか」
思い切って声をかけると、その人がうなずき返しました。
自転車はそのままにして、土手下の家に駆けこむと、事情を話し、救急車を呼んでもらいました。
やがて、近くの人々にも見守られながら、その人は運ばれて行きました。電話をかけてくれた人が,付添いになってくれました。その後、病人がどうなったか気になりながら、それからも毎日、土手道を自転車で走っています。
知らない人には用心しろ、と父は言います。でも、怪しむだけだと、人でなしになるわ。美鈴はつくづくそう思ったことでした。