(158) どなた?
久しぶりに歩いて買物をして帰り道、原夫人は道の向こうから来て、すれちがった人に深々とお辞儀をされました。あわてて同じほど丁寧にあいさつを返した後で、はて、今のはどなただったろう、と首をかしげました。
近頃こんな場面が、ひんぱんに起こります。そのたびに頭の中に積もっている友人、知人、教え子の顔をあてどもなく、めくってみるのです。
どんなに手づるをたぐっても思い出せない日は、もう老いの始まりではないかと、侘しさと焦りを感じます。
ことにいかにも親愛をこめて、笑顔を向けられた日は、日がな一日その顔に当てはまる名を、探していました。
まだ現役で教員をしていた頃、新学年の名簿を開くのは、胸の高鳴る一瞬でした。ああ、4人目の高橋恵子さんだ、あら、田中美穂さんは3人目ね、と年を重ねるごとに、同姓同名の生徒が増えていきます。
教え子だけで、ざっと5000人は超えています。くよくよするのは止めましょう。思い出せなくて当然、と諦めることにしました。
とうふ屋さんで小銭入れを開けたとたん、ふっと思い出しました。さっきの人、いつだったかバスの中で、小銭の足りないその人に、20円渡した、あの時の人だわ! 名前はもともと、伺ってはいなかったのでした。
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