1章-(1) 明治23年3月末
ぼちゃり。つるべが井戸の水面に達して音をたてると、かよはあわてて紐をたぐりよせる。桶一杯に水を張っては、とうていかよの力では、引き上げられない。この正月を迎えて、ようやく数えの10歳になったばかりだ。
家を出るとき、かあちゃんは臨月のお腹をさすりながら、何度も言った。
「井戸に引きこまれたら、おえんど。村じゅうで、たったひとつのでえじな井戸じゃけん、汚したらおえん。・・本家のてごう(手伝い)に行かせる前に、あんちゃんに、やらせるんじゃったのう」
井戸からの水くみは、男の仕事であった。
250年あまり昔、この帯江村一帯は、一面にヨシの生える干潟であったという。亀山地区が干拓されたのが、1652年。それ以来〈水〉が何より村人の苦労のたねだった。飲み水は雨水か、この地区ではただひとつの、この井戸水しかない。
いつもなら、小柄なとうちゃんが 水担桶を2つ、てんびん棒でかついで運んでくれる。2町(200m) を運びきると、とうちゃんでさえ、肩で息をつき、しばらくは座りこんでしまう。それでも、村の中では、かよの家は井戸に近い方なのだ。遠い人たちは、猫車などにバケツを乗せて水くみに来る。
かよはやっと紐をたぐりあげ、つるべに3分の1ほどの水を、手桶に移し替える。1滴もこぼすまいと、息を詰めてそろそろと流しこむ。
「むだにこぼすでねえど。お水神さまのばちが当たるで」
と、誰からも耳にたこができるほど、聞かされている
3回くみあげて、手桶に3分の2満たすと、ほっとため息が出た。
井戸端のお水神さまのほこらの上には、大きなツバキが枝を張って、今まっさかりだ。花弁がひとつぽたりと落ちた。真っ赤な花が、そっくり首ねっこからはずれて、ぬれた黒土の上に転がった。
ああ、きれいじゃあ!
かよは拾い上げて、そっと汚れを落して、紺と灰色のしま木綿の着物のえり元にはさんだ。短くたくし上げた着物のすそから、赤いおこしをのぞかせ、紺色の前かけを胸高にしめている。もうひとつ、ツバキの花をもぎとると、かよは髪にもさしこんだ。
「ありゃ、かよちゃん、かあちゃんに似て、えれえ別嬪じゃのう」
順番をまっていた田中の留じいやんが、つるべに手をかけながらからかう。かよは真っ赤になって、手桶を持ち上げると、駆け出した。
「こぼすなよ。わらじがぬれるで」と、留じいやん。
水はたしかにタポタポ揺れて、桶のふちから飛び出しそうだ。
「とうちゃんはどげんしたなら。かよちゃんに 水くみさせてよう」
「中島へ行っとんじゃ」
かよは歩みを止めて叫び返した。とうちゃんは泊まり込みで2里(8キロ)離れた中島の大旦那の家に、出稼ぎに行っている。今頃は、田起こしをしているはず。その後、水を張って、苗代田にし、種をまく。とうちゃんはそこまでを手伝うことになっている。
ちらほらと咲き出したレンゲ畑を過ぎ、1尺(30cm)ばかりに伸びたイグサの田んぼと、麦畑沿いの畦を通り、やっと村道に出る。
ここから3間はば(約6m)の用水路に沿って、家が粗いくしの目のように、とびとびに並んでいる。どの家も川岸すれすれに建っていて、裏口から石段が川の水面まで下りている。川水は、大切な台所用水なのだ。
かよの家は、あぜ道の角から8軒目にあった。
その時、向こうからバタバタと足音が聞こえて来た。かよが手桶を置いて見上げると、
「ねえちゃーん」
「ねーたーん」
弟のとめ吉が、がっちりした身体を揺らせてかけてくる。着物の裾がめくれ上がり、もも引きが見えている。その後から、3つになるすえが 追ってくる。
「かあちゃんが、かあちゃんが、吠えとるで!」
(画像は、蘭紗理作)