(89) 以心伝心
珍しく夕方7時前に帰宅した夫と、湯豆腐なべをつつきながら、晩酌を交わしている時、星さんはふと感じ取りました。
夫は何か秘密を抱えているようです。大きな不器用そうな体全体から、抑えた明るい楽しみのような、気配がにじみ出ています。
案の定、酔いが回って口が軽くなると、急に居ずまいを正して、星さんに深々と頭を下げました。
そして、いつのまに隠していたのか、食卓の下から、リボンをかけた箱を取り出して、星さんに進呈しました。
「誕生日には早いけど、このところ世話のかけっぱなしだからな」
酔いにまぎらせて、夫は言いました。
「まあ、ありがと。遠慮なくちょうだいつかまつります」
おどけて捧げ持って、星さんは胸の熱い思いを飲みこみました。
通じていたのです、夫にはすべて。 何よりそのことが胸に沁みました。
半年ほど前、夫が会社の飲み会の後、昏倒し出血して入院して以来、「これが最期の別れとも知らず・・」という一節が、頭を離れなくなりました。そうなのです。誰にとっても、いつ何事があるかわからないのですから。
それで以前に増して、念入りに見送りし、弁当作りし、愚痴は言わず楽しい夕食の会話を、と心がけました。定年まであと3年、2人3脚のひもを、締め直したのでした。
包みをほどき、箱を開けると、まあ、あわいピンクのモヘアのセーターです。これを探す姿が見えるようです。どんなに気恥ずかしかったか! いつまで若妻のつもり? と笑いかけて、星さんはもう一度熱いものを飲み こみました。
胸に当ててみせる彼女を、夫は嬉しそうな笑顔で見つめていました。
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