2章-(8) 『トム・・』の舞台へ
● 次に訪れたのは、バスで20分ほどにある「グレート・シェルフォード」だ。フィリパ・ピアスのカーネギー賞受賞作『トムは真夜中の庭で』の舞台であり、かつて幼い頃のピアスの住まいでもあった。
● 現在の所有者のホーリー夫妻に迎えられた。屋敷は、想像していたより 小ぶりだったが、1階の居間への入り口には、飴色に光る見上げるほどの「大時計」があった。これぞ、トムが真夜中に聞いた13の鐘を鳴らして、トムを幻の庭へと導き、若き日のハテイ・バーソロミューに出会わせる、物語の導入役となる貴重な時計だ。
通路から居間へ入ると、2階へつながる階段があった。意外に短い数段の階段で、踊り場から右へ上る長い階段の裏が見えていた。トムが、ハテイとの最後の別れに、2段飛びで駆け上がったのは、2階から3階へ通じる階段なので、階下からは見えなかった。
● ホーリー夫人は私ひとりを、居間の隣の部屋へ案内してくれた。壁面一杯に飾ってある陶器の収集品を見せたかったのだ。これは日本の物、と幾つか示してくれたのは、九谷焼や伊万里焼のカラフルな絵皿だった。
夫人の見事なクイーンズ・イングリッシュに聞き惚れながら、白い戸口を 抜けて「トムの庭」へ出た。芝生と花で彩られた庭は、手入れが行き届いていて、物語の中に描かれている「高い煉瓦塀」「トムの透明な体が抜けた扉」「日時計」などが、物語そのままに残されていた。私たちまで、あの物語世界へ浸らせてくれるようだった。
● 夫人の話によると、塀の向こうの果樹園は、今では他人の持ち物になっているため、庭はぐんと狭くなっている。庭仕事はご夫妻と、隣人のメアリー・イネスさんと3人がかりで手一杯だが、今年は新しく学生たちが加わってくれて、専門の知識で、綿密なプランを立てて図面を描き、新しい〈ボーダープラント=境界に植える草花〉を植えてくれたという。
イネスさんは「カム ジス ワイ (Come this way) 」と、話す言葉がすべて土地っ子弁で話してくれるのが面白かった。高校や大学までは進まなかったのかも、と思えた。
屋敷のすぐ傍を流れる「ケム川」と「ミルズ・リバー(製粉業者用に特別に 水を引いた川)」を見た。「水門」もあった。これはピアスの『水門にて』という作品のモデルになった所だそうだ。水門の上流側に「フィッシュ・ポンド(魚のため池)」があって、かつてはケム川で釣った魚を、ここにストックしておいた。近くに僧院があり、この川の水門近くから船で出入りしていたものだという。今は水面は静まり帰っていて、遠い日々のことになっているようだ。
★★話はそれるが、一行の中のYさんは、子どもたちにおはなしを語るのが得意で、持ち話も多い人だが、『三びきのこぶた』の物語に出てくる、〈2ひきめのこぶた〉は、何の木で家を作って、オオカミに吹き飛ばされてしまったのか、木の名前を英語で知りたいから、ホーリー夫妻に聞いてみて?と私に頼んだ。物語の中では「ハリエニシダ」とある木だ。
私は ”English Fairy Tales” by Joseph Jacobs を読んだことがあり、うろ覚えだけど「ファーズ」だと思うけど、と答えたが、手持ちの辞書には載ってなく、夫妻に尋ねてみた。ご夫妻で頭をひねって、私のファーズは通じず、夫人は「sticks = 棒きれ、と子どもたちには読んできかせたわ」とくり返すばかり。ホーリー氏は Jacobs は知っていて、ケンブリッジ大学にあるが、sticks 以外はわからない、と言われた。
★ [この疑問は数日後の22日に,フットパスを歩いていた時、現地案内人で元小学校教員のバーバラさんが、偶然〈gorse〉という木の名前を教えてくれた。黄色い花をつけた木があちこちに花開いていたのだ。初めて聞いたその名を辞書で調べてみたら、「ハリエニシダ」と出た。
「これよ!この木よ!」と、自分が語る物語に登場する「ハリエニシダ」とは、どんなものかを知りたかったYさんは、大感激して大騒ぎした。しかもその辞書には、続けて furse = (古語) と出ていたのだ。私も驚きと深い喜びを感じた。ふっと浮かんだ語がドンピシャリだったのだから、実にふしぎ!意識して覚えたわけでもないのに。
●トムの庭では、1時間ほど散策した後、お礼に吉松氏は「宮沢賢治の英訳集2冊」と「見学料」をお渡しした。私たちもお土産代わりのメッセージ つきうちわを差し上げた:
” We greatly appreciate your having taken care of our Tom's Midnight Garden!”
● 帰途、バスで通り抜けたケンブリッジ大学の町には、たくさんの学生の姿が見えた。時々、日本人学生も混じっていた。皆賢く見えるねえ、と口々に羨みつつ、右に左に見える大学が32校もある偉容に圧倒されてしまった。