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4章-(5) 見直されて・・
ワンゲル登山の帰りの電車で、香織は電車の戸口に近い座席に座っていた。ある駅で、アメリカ人の母子が乗って来た。小さな男の子が、香織のすぐ側の手すりに身体でもたれた。両手は大事そうに水の袋を抱えていた。
立っていたポールが、膝立ちになって、水の中を動き回っている黒いものをのぞき込んだ。
「ホワッツ、ジス?」
結城君ものぞき込んで、おたまじゃくしって、何て言ったっけ、とつぶやいた。男の子は後ろをふり向いてママに助けを求めた。ママも首をひねった。
ポールは魚の一種かなあ、という。その時香織の口から、英語が飛び出したのだ。
「ア タッドボール。イッツ ア タッドボール」
ずっと昔、姉の志織が、絵カードを順にめくりながら、繰り返していた言葉だった。
「そうだ! タッドポールだ。ポールの仲間じゃないか!」
結城君とポールが、腕をたたき合って笑った。
「イッツ グロウズ イントゥ ア フラッグ」
耳に残っていた志織の声が、自然に香織の口から続いて出て来た。
「オウ フラッグ? リアリー?」
ママも男の子もポールさえ目を丸くして、水の中の黒いものを見つめた。 カリフォルニアのサンディエゴから来たというポールは、オタマジャクシを初めて見たのらしい。
「オリー、エイゴ ウマイネ!」
ポールが心からの笑顔を香織に向けてくれた。香織にとっても、胸の中で 何かが炸裂した感じだった。絵カードが、苦痛なただの文字、というのではなく、生きた知識を伝えたのだ。とってもうれしい。香織は男の子と別れるとき、手を振り合い、にっこりした。それだけで心が通じた喜びがあった。
そしてあの時、自分の財布にぶら下げている小さなカエルの値付けを思い出して、あの男の子に見せてあげればよかった、と悔やんだ。その後で、はっと思いついた。このカエルを・・お礼にあげようかな。そうしよう。そっと財布をチョッキの深いポケットから取り出し、誰にも気づかれないように、手探りでカエルを取り外し、ズボンのポケットにしのばせておいたのだ。
夜9時。1号室から順にドアがたたかれた。耳栓はしていても、点呼の音は響く。
「はーい、2人ともおりまーす」
直子が大声で答えて、それを合図に休憩となった。ふりむいてテーブルの 上を見た直子は、ギョーテンの目になった。
「何よ、これ、手品みたい! どこから来たの」
「差し入れなの。ポールと結城君がね。さっき届けてくれたの」
直子に遠慮して、ポールを先に言った。
「わあ、すごい手間をかけた料理だわ。頂きましょ、オリも」
楊枝を指した肉団子を渡された。ごまがまぶしてあって香ばしい。カリッとしたミニ春巻きもある。煮含めたこうやどうふにニンジン、シイタケなどの煮物がおいしい。
揚げたてのぬくもりの残ったポークロールを食べ終わってから、香織は嫌いだったはずのチーズが入っていたことに気づいた。でも、もう一つ食べたほど、おいしかった。2人で夢中だった。ミニケース入りのサラダやフルーツデザートも残らず平らげた。
「ごちそうさま」
直子が手を合わせた。
「これで、頭に血がまわるね」
香織も体中に力がめぐってくる感じがあった。直子は後片づけをしながら、言った。
「オリはほんとに結城君をなんとも思わないの? 好きだとか、いいヤツとか・・」
「そりゃ、いいヤツとは思うよ・・」
「結城君の方は、相当のお熱だよ、悔しいけど。オリに気があるから、こういう事やってくれるのよ。ペア登山の時だって、羨ましいったらなかった」
そうかな、彼が、好きなのかな? 時々そうかも、と言う気もするけど、 からかったり茶化したりされると、ちょっと違うな、とも思う。ただの妹 みたいな・・。
「オリは魅力あるもの、かなわないよ。笑うとクリーム色の、やさしい花が開いたみたいだよ。黙っていると哀しそうで、何を困ってるのって、声をかけたくなる。ふくれると、案外意地っ張りなんだなって思えるし、要するに、何やっても気になる女の子なの。若さまが面倒見たくなるのも、結城君が追っかけてくるのもわかるなあ、ほんと、くやしい」
直子の声が耳をかすめて通り過ぎていた。突然、思い出したのだ。あの登山の日、若杉先生の問いに答えた結城君の言葉を・・。
「ひょっとしたら・・」
「何よ、急に、オリは・・」
「結城君、言ってた。今はひとりっ子だけど、前にもうひとりいて、10歳で死んだ、って。それ、妹だったんじゃないかな」
あの時、先生の山靴の音がうるさくて、聞き逃した言葉があった。妹、って言ったのかも。香織はその妹に似てるのかな。もしそうなら、すべてがあてはまる気がする。