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(4) 身の上話

くくっ。こらえかねたすすり泣きが、うしろで起こった。闇に引き戻されて、ふりかえると、丸めた背が、はげしく波打っている、芳子はどきりと して、いすをすべり降りて、にじり寄った。

「ごめんなさい、わたし・・いけなかったかしら」

何かを思い出させてしまったのかしら。その人は、肩をふるわせながら、 強く首を振った。メガネの下に流れ落ちているに違いない涙を、ぬぐおう ともせずに、芳子の手を引き寄せた。

「ありがとう。なんて、いい音。・・生きていて、よかった! また、この音聴けて・・」

絞り出すように言って、またくっと詰まった。その一言が、芳子の胸を熱くした。私の弾いたピアノ曲が、この人を泣かせた。だれかを感動泣きさせることがあるなんて、夢にも思っていなかった。たった今、この人はピアノの調べに乗って、闇から光の世界へ引き出されたのだ。芳子の目に、山々の輝きが開けたように。

「つらいことが多すぎてね。ピアノを開ける気になれなかった・・」

やっと平静を取り戻した声で、思い切ったように立ち上がると、あ、忘れてた、とつぶやいて、初めて電灯のひもを引いた。へやはたちまち明るくなった。

「そうだ、まだうぐいす餅、召し上がらないままだったわね、お茶を入れ 直すわ。まず頂きましょ」

「召し上がりながら、聞いてくださる? 私の名前は斉藤雪子なの。東北の冬の生まれで・・」

その人は、人には話したこともないのだけどと言いながら、ピアノを開けるきっかけになってくれた芳子に、ピアノにまつわる、これまでの話を聞かせてくれた。初めて会ったばかりだったのに・・。

「母と弟は、仙台の空襲で、焼け死んでしまったの。父は、終戦間際に中国で戦死して・・。女学校に通うために、東京のはずれに下宿していた私は、たったひとり残された。家財道具は、下宿先まで運んであったこのピアノと、衣類と手回り品だけだった。ただ、父が女学校卒業までの学資として、かなりの額の郵便貯金を渡してくれてあったので、なんとか卒業ができた 年に、終戦になったの。

その秋に、立川の駐留軍基地に勤めることができて、やっとお給料がもらえ、自立できるようになって、ほんとにほっとしたわ。哀しみを忘れるためにも、がむしゃらに働いた。5人前働く斉藤さん、って言われてた。働き者のユッキーとも呼ばれて、少佐の秘書になってた。同級生の誰より高給取りだったのよ。

そんな生活が続いていた5年目の春から夏にかけて、あまりに大量の英文の手紙、タイプ打ち、電話の応対で緊張が続いて、眠れなくなってしまった。

今思うと、朝鮮戦争が始まる前後だったのね・・。

何週間か経ったある朝、くたくたに疲れ切って、起き上がった時、世界は 闇になってた。目をこらしても、何も見えないの。長い間の過労と栄養不良のせいだった。基地の医師も東京の大病院でも、手の施しようがなかった。

そして、職場では、それまでの働きがどうであれ、目を使えない者に用は なかった。1ヶ月分の退職金で、あっさりと米軍基地を出ることになった。

ひとりぼっちの目の見えない身で、どうして生きていけばいいのか。絶望と焦りで、気も狂いそうだった。何度か自殺も考えた。でも、ひとり、ということは、自殺の後始末さえ、他人の手を煩わせることになるよね。

そんなある日、偶然ピアノに手がふれたの。忙しさにまぎれて、10年近くも開けることもなかったピアノよ。手探りで、弾き出してみたの。ベートーベンの「月光の曲」。大好きな曲で、以前に暗譜したこともあった。朝から晩までピアノに向かって、なんとかして、目の見えなかったベートーベンの心に近づきたい、と引き続けるうちに、死にたい気持ちを、忘れてしまっていた。

けど、その反面、曲に乗って昔の楽しかった時代が、よみがえってきたの。貿易商の父に、モダンな母。中学生の弟。2度と帰って来ない幸せな日々。私の人生は、何のためにあったのだろう。すべてを失い、孤独に耐えるためだったのか。ピアノを弾いた後の、うちのめされるような淋しさに、もう 弾くまい、と幾度カギをかけたことか。でも、翌朝には、また禁を破って、弾かずにはいられなかった。

そして、ある日、手持ちの財布が空っぽになっているのに気づいたの。近くの食堂から出前を取って、ずっと家に閉じこもっていたのだけど、なんとしても出かけなくては、まず銀行にお金をおろしに行かなくては・・。

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