2章-(8) 香織は間違えて
ポールが居ずまいを正して、ゆっくりとした英語で、香織に問いかけた。
「僕は君に英語を教えて、君が僕に日本語を教えてくれる、という形で、 週に1度、勉強し合うことにしてはいけませんか?」
香織は答を直接に求められていた。
「ええ、困ります」
香織はきっぱりと答えた。とんでもないわ。ミス・ニコルや、他の科目の 課題だけで手いっぱいなの。ポールは日本語を 結城君に教えてもらえる でしょ。親切そうではないけれど。
それにママの〈リモコン〉を振り払いたい気持ちも強かった。ママは香織に小さい時から英語になじませようと、レコードを聴かせたり、英語で話し かけたり、外国人の友人を連れて来たり、手をつくした。
その結果、英語に夢中になったのは、姉の志織の方だった。香織は日本語 だって、かなりの無口だった。英語で話しかけられても、香織はガンとして口を開かなかった。ママは発音にうるさくて、志織にも何度も直させていた。 香織はだんまりを通すことで、ママを諦めさせたのだ。
ところが、ママは諦めてはいなかった。ポールをちゃっかり利用して、香織を英語に向かせ、動かそうとしている。
香織はきっぱり断ったつもりで、ほっとしていた。すると、ポールが嬉し そうに木曜日がどうの、地図がどうのと、香織には聞き取れない早口でまくしたてた。
瀬川さんと結城君がちらと顔を見あわせた。何か変だ。
「はっきりお引き受けしたんですもの。笹野さん、木曜日の夕方4時半から5時半、だいじょうぶね」
瀬川さんは念を押すように言った。
「ええっ、そんな、わたし・・」
「その程度の英語だってこと。木曜日にオレんちで勉強した方がいいな」
結城君がニマアと笑って、立ち上がった。
「いいお話じゃないの、うらやましいくらいよ」 と、瀬川さんが小声で香織にささやいたのを、結城君は聞き取ったらしく、瀬川さんも誘って言った
。
「どうぞ、ご一緒においでください。この人には、通訳がいるようだから」
香織はむっとした。瀬川さんはすぐに手を振って断った。
「木曜日は、ピアノのレッスンの日ですから、残念ですけど・・」
「じゃ、来週の木曜日に。」
と、ポールは何の疑いもなく、うれしそうに結城君の住所と地図と電話番号のメモをテーブルの上に置いて、ドアへ向かった。香織はそれを受け取る ほかなかった。
ロビーでは、直子がヤキモキしながら、電話室の中からこっちを見ていた。電話をかけている風に、受話器を耳に当てた姿で、香織に目配せした。
結城君は、廊下に面したドアにかかった羅針盤に目を走らせた。寮の内部 がめずらしくてならないらしい。もっと奥へ入って行きそうなそぶりもしたが、もう数歩先へ行っていたら、香織と直子の名札が見えてしまうところ だった。が、ポールがもう靴を掃き終えているのを見て、彼は玄関へ引き 返してきた。
靴をはきながら、結城君は香織にだけ聞こえる小声で尋ねた。
「君の部屋はどこ?」
香織はきゅっと唇を結んで、目でにらんだ。結城君はにぃと笑い返して、 ポールの後を追って、ドアの向こうに消えた。
その夜の黙学時間は、丸つぶれだった。直子が香織につきまとったのだ。
「あの紫のトレーナーの人、結城君だって? あの人すてき。あたしの理想 だわ。背が高くて肩ががっちりしてて、ちょっと不良っぽいでしょ。星城生らしくなくて、バイク飛ばしたり、ナンパしたりやりそうじゃない。目が きりっとしてて、ひとくせありそうで・・オリ、お願い、紹介して!」
「今日、初めて会ったばかりなのに?」
「ひと目ぼれしちゃったんだもん。ダメもとだもの。オリが英会話を教わる日に、いっしょに連れてって」
直子のお熱は急上昇だった。でも、香織はしぶった。あの結城君の感じ悪さはサイテイだった。それに直子のことを、デカのデブはニガテ、と言った あの失礼な言葉を聞いてしまった。直子がかわいそうすぎて、そんな言葉を直接には言えず、返事にこまって、黙りこむしかなかった。
何もかもが、香織には氣が重かった。
ロビーからへやに戻る間に、瀬川さんが香織の間違いを、指摘してくれた のだ。
英語では、~してはいけない? と否定形で質問されると、日本人は〈いけない〉時に〈ええ=イエス〉と答えてしまうが、彼ら英語を話す人たちは、〈してもよい〉なら、イエス、〈いけない〉なら、ノウになる。香織は、 ノウと言うべきだったのだ。