6章-(2) 結城君の体験話
「やっぱり、な。その程度のおつむじゃ、秘密はムリムリ。でも、言っとくけど、息抜きなしで机に向かって勉強だけしてたって、あんまし効果はないと思うよ」
「よけいな・・」
「お世話、か。でもさ、これ、オレの実感、体験から言ってるんだ」
へえ、だ。香織は聞き耳を立てる。
「中2の6月半ばにアメリカから帰ったろ。公立中学へ編入して、2週間後に期末テストがあったんだ。ひどかったぜ。英語だけはいいとして、後は ゼンメツさ。焦るよなあ。国語ダメ、数学ダメ、歴史、理科、音楽、全部 ダメ、だもんね。結局ビリから8番目だった」
ふうん、そういうわけ。ふっと肩の力が抜けた。
「ほっとしたろ? オレって意外といろんな味を知ってるんだ。人生の苦さも辛さ絶望も。それと絶望を乗り越えた時の、世界が広がる感じもね」
結城君の声には、からかいもあざ笑いの響きもなかった。
「今日はがっかりしたぜ。あのでっかい人の側に、くっついてると思って たのに」
「だって、映画を見ると夢中になって、数日はぼうっとしちゃうもの」
「ハハハ、そういうものかな。そうだな、『危険な恋人たち』だもんね。 あぶないあぶない。そうか、勉強か。助けてやれるといいけど・・」
言いかけて、結城君はあわてたように咳払いをして止めた。そんな本音を 聞かせるつもりじゃなかったんだ、と言いたげに、今度はからかい調子に 戻った。
「香織の恋の運勢は、またまた失恋と決まりだね。あいつ、来てたぜ。 ポールとペア組んでたあの頭のいい、おっかないヤツ、先生と並んでさ」
若杉先生も映画会に行ったのだ。千奈が先生と並んでたって? その千奈のかわりに、自分が週番をしてるのに? なんてお人好し! なんか腹が立ってきた。靴下も映画も、千奈に先生を取られた気がした。別に先生が特別に 好きってわけじゃないし、ただ先生に自分の頑張りを認めてほしい、ほめてほしい、それだけのことだけど、それでも、目をそらされた感じが残った。
「がっかりするなって。期末テストが終ったら、映画くらいつきあってやるよ」
「いいの! 私はひとりで行きたいの!」
結城君は、のどの奥で含み笑いをした。
「じゃ、オレ、バレーの練習があるんだ。来週、強豪校と3回戦があるから、レギュラーは映画を見てる暇はないんだ」
「映画会は抜け出すの?」
「そう。始まりの挨拶だけ、部員が勢ぞろいして、後は後輩とマネージャーたちにまかせて・・だから、いつかこの映画を、いっしょに見に行こう」
「さっき言ったでしょ。ひとりで行きたいの」
「フフフ、まあ、そういうことにしておこう」
もう、にくらしい。電話はやっと切れた。長い電話に思えた。時計は2時 15分。結城君と話をすると、なぜかその後いらいらする。
第一、香織の一番知られたくない、ビリのことを知られてしまった。せっかく計画を立てて勉強してるのに、そんなことしても効果はないと否定された。その上、若杉先生が香織の恋の相手だと思われて、失恋の運勢だって! 気持ちが波立つことばかりだ。
香織は頭を激しく降って、結城君を追いはらうことにした。ノートはまだ ほんの少ししか進んでいない。イラスト先生の目を、怒り目に描き直して、 猛然と書き取りを始めた。
5ページほどぶっ続けに書いたり、訂正したり答合わせして、丸をつけたり。電話の伝言を、外出中の寮生のへやの戸口の窓にはさんだり。その帰りに、何気なく中庭を見て、香織は声を上げた。
庭は、無数のあじさいの花で埋まっていた。こんもりと大きい手まりあじさい、外側に星のような青い花びらをつけるガクアジサイ、小型の白い花飾りをつけるあじさい。ラウンジの絵に描かれれいる以上に、色彩豊かな花の群れだった。
今まで気づかなかったなんて!自分の心のゆとりのなさを、香織はしみじみ感じた。ゆとりがなければ、見えるはずのものも見えないんだ。
結城君の笑い声がよみがえってきた。机に向かうだけが勉強じゃないって。結城君はゆとりを持て、と言いたかったのか。しゃくだけど、結城君にもっと聞いておくべきことがあったことに、今になって気づいた。
ビリから8番目だった人が、どうやって難関の星城学園に入れたのだろう。どうやって追いつくことができたのか・・。