(私のエピソード集・8) やっと卒業
私にとっては、長い長い4年間だった。勉強そのものの記憶よりも、生活とお金のやりくりに、追われていた思い出の方が多い気がする。
(ここにはまだ披瀝できない、寮での辛い大きな出来事が、心にしこりを抱えたままの卒業でもあった。寮内で起きたある盗難事件の、私が証人の立場となり、私の証言のせいで、寮を追われ、大学の温情により、翌年復帰する形となった人物がいたことだ。『あじさい寮物語』の中で、少し形を変え、フィクションも少し加えて、書き残してはいるが、実際はどうであったかについては、時が来るまで、私はやはり口をつぐんでいようと思う。その時の被害者の方と、寮監先生はもう亡くなられてしまったけれども・・。)
朝が苦手な超低血圧の私にとって、寮での朝6時からの〈掃除当番〉が、何より苦痛だった。廊下、洗面所、トイレ掃除のどれかを、1週間続けるのだが、明日から当番という前夜は、眠れず明け方近くまで、目が覚めていて、このまま起きていようと、思い始めると、ふっと眠ってしまい、部屋の扉を激しく叩かれて起こされ、叱責を受けてしまう。
それが何度あったことか。何十年後になっても、夢に見てしまうほど、苦い思い出だった。
寮にいれば、〈列〉と呼ばれる、1年生から4年生まで、10人のグループで、時々お茶会が開かれる。そのたびに、名店からケーキを取り寄せ、列長の部屋に集まって、紅茶やコーヒーで楽しむのだが、私はこの時の経費に、毎回ドキドキしていた。財布に3円しかない日にも、100円集められるのだから。
本棚の本を古本屋へ、持って行った日もあれば、倉敷で電気店を営む長兄が、送ってくれたラジオを、質屋へ入れたこともあった。
アルバイトのお金が入った日に、請け出しに行くのだ。一度、この質札を廊下に落として、気付かなかったことがあって、寮監先生が拾って、私に届けてくれた時は、恥ずかしさに顔も上げられなかった。
そんな私が、やっと卒業の時を迎えたのだから、よくぞこぎ着けた、という思いが強かった。倉敷の母が、卒業と就職には、物入りだろうと、初めて大金を送ってくれた。次兄が京大の修士課程を卒業し、就職先が決まったこともあって、少しは余裕ができたのだ。
高校の時の同級生が、卒業式の服と、帝国ホテルでの謝恩会の礼服を引受けてくれて、布地やスタイルを、色々と考えてくれた。杉野ドレメ学院を終えた彼女にとっても、力試しのチャンスとあって、大変な意気込みで、取り組んでくれるのだが、私の願いとはすれ違うこともあって、一番困ったのは、卒業式用の黒服だった。
私はごく普通の、冠婚葬祭に使える、テーラー襟の黒服を、お願いしたのだが、彼女が言い張るには、4月から勤め始める学校でも、着られる服の方がいい。卒業式は黒服でなくては、と決まってるわけではない。いいのを考えてあげるから、任せなさい、というわけで、結局、黒服は作ってはもらえなかった。金額に限りがあるので、2着のスーツは作れなかったのだ。
そんなわけで、卒業式当日、ほんとうに私ひとりだけが、薄クリーム色のスーツ姿だった。黒服ずくめの全員写真の中で、白さが際立って、何とも恥ずかしくてならなかった。
しかも私は〈引っ込み思案の、時どき蛮勇〉を、この時、まさに発揮してしまい、式の数日前に、自作の詩を、本館の受付に届けてしまったのだ。
その詩が、あろうことか、卒業記念号の〈学報〉の、全員写真の上部に載せられていて、私は嬉しいどころか、死んでしまいたいほど恥ずかしくて、自分に配布されたものを、引き破って捨ててしまった。
どうしてあんなことをしてしまったんだろう。もう忘れてしまうしかない、と固く心に決めた。やっぱり〈卒業〉にこぎ着けた喜びが、爆発したせいだったのだろう。私の中のマグマは, 奥深くにひそんでいて、まれに噴出してしまうのだ。
卒業式には、大勢の父母が、キャンパスを訪れていた。遠い北海道や、九州からはるばると、娘の卒業を祝いに来ていて、あちこちで写真を取り合っていた。
私は家族に来て欲しいとは、思いもしなかった。北朝鮮から無一物で引揚げた貧しさが、今も尾を引いていて、そんな余裕のないことは、わかっていたから。