8-(1) 学校はゆううつ
2学期が始まる朝、おかあさんはマリ子のようすに気づいた。
「マリちゃん、元気ないなあ。せっかくの新しい服を着とるのに・・」
言いながら、おかあさんは鏡に向かって、手早く髪をまとめている。自分の出勤準備に忙しい上に、自転車での初出勤でもあり、ソワソワしていた。
マリ子は紺色のチェックのひだスカートに白いブラウス姿で、かべにもたれていた。
お兄ちゃんがめずらしく手を出して、マリ子の頭をぽーんとはたいた。 「マリッペ、しっかりせい。なんぞあれば、この兄きが助だちいたすぞよ」
「いつもの反対じゃね、あんたたち」
おかあさんがクスッと笑った。頼もしいお兄ちゃんを見るのがうれしいのだ。
お兄ちゃんは学校が始まるのを待ちかねていた。でも、マリ子にとっては、気が重くてたまらない。
夏休みって、ほんと天国のような毎日だったもの。いくつか失敗もしたけど。お母さんの自転車の先生になったし、林さんちで子守をしたり、海へ 行ったり、3つの神社で輪くぐりもした。川で泳いだり、いっぱい遊んで、おしまいの地蔵祭りもいい結果に終って、楽しかった。
「マリッペ、宿題しとらんのか」
お兄ちゃんが真顔でマリ子をのぞきこんだ。マリ子は首をふった。まあ、 なんとか形だけはすませてある。夏休み帳と絵日記と、アサガオ観察と 工作と・・。最後に残した大きらいな絵は、夕べ寝る前に、おとうさんの 絵をまねして、ちょこちょこっと仕上げた。
「クラスにいやなヤツがおるんか?」
お兄ちゃんはおかあさんに聞こえないように、声を低めた。マリ子はうなずきかけて、やっとのことでがまんした。でも、お兄ちゃんにはそれだけで 伝わった。
「そげなヤツ、決闘でやっつけちゃれ!」
決闘! マリ子はその言葉のすごさにぎょっとして、それから吹き出しそうになった。先生を相手に? 田中のはげタヌキだよ!
「そうじゃて、笑え笑え! 帰ったら教えちゃる。今読んどるんじゃ。決闘は、おもしれぇぞう!」
お兄ちゃんは本から力をもらったみたいに、いきおいをつけて宿題のつまったカバンを肩にかけた。マリ子もしぶしぶ荷物を取り上げた。
〈学校すごろく〉があるとしたら、〈天国〉の次は〈地獄〉に、つながっているらしい。
担任の田中先生とは、マリ子が4月に転校してきた最初の日から、気が合わなかった。
その日、ふつうなら親に連れられて行くところを、マリ子のうちはふつう ではなかった。おとうさんは高校の、おかあさんは小学校の新学期でいそがしく、マリ子はお兄ちゃんのあとから職員室へ行ったのだ。背丈は同じくらいだが、こんな時はお兄ちゃんが頼りだ。
校長先生が待っていたように、手まねきしてくれた。親分ゴリラみたい! マリ子はひと目で気に入った。日やけしたいかつい顔に、にっこり白い歯を見せて、校長先生はお兄ちゃんから書類ぶくろを受け取った。その中には、2人の成績書類などが入っていた。
それから、お兄ちゃんは若い杉野先生に、マリ子は田中先生に引き合わされた。どちらも男の先生だが、マリ子はお兄ちゃんがうらやましくてならな かった。若くて、体育が得意そうで、さっぱりしてにこにこしている。
田中先生ときたら、まるでその正反対だ。むっつりして気むずかしい顔で、マリ子の書類を受け取ると、いすにすわりこんで、すみずみまで見ている。
そのあいだに、マリ子の方も、先生をよくよく観察した。中年太りで背が 低くて、くたびれた背広には、シミがあちこちついている。目が細くて、 あけっぱなしの口元から、きいろい歯が見える。それに横をむいた時、後ろ頭にミカンほどの丸いハゲが見えた。
見た目だけでもがっかりなのに、先生の言葉にはもっとがっくりだった。
「2学期にゃ、学級委員をやってもらわにゃ。両親が高校の先生と小学校の先生なら、勉強はようできるはずじゃ」
マリ子はむっとして、思いきり首をふった。 「うちは学級委員やこ、なりとうないです」
自分の力でというより、まるで両親の職業のせいで、特別あつかいになりそうだった。
「そうはいかん。めぐまれた家庭で、成績もよけりゃ、委員はやってもらわにゃ・・」
マリ子はむきになった。 「うちの成績はようないです。お兄ちゃんはええけど、うちはきらいな科目が多いし」
それはほんとなのだ。お兄ちゃんの成績は、体育だけ〈ふつう〉で、あとは全部〈ひじょうによい〉の大行列だ。マリ子のはその反対に、体育だけが〈ひじょうによい〉で、あとは〈よい〉と〈ふつう〉で、でこぼこしていた。委員だなんて、ひっくり返るよ!
田中先生は笑っているつもりなのか、ほおをヒクヒクさせ、口をゆがめて 言った。
「心配せんでええ。わしが目をかけちゃる」
「ええです! 目をかけてくれんでも・・」
マリ子は反射的にはっきりそう言ったが、先生の耳には届かなかったらしい。教室に持って行くプリントを、数え始めていた。
わからないんだ、この先生! マリ子には、それが何よりいやだってことが。特別に目をかけてなんかほしくない。自由にほっといてほしい! マリ子の口は、ひとりでにとんがっていた。うす汚れた手で、背中や頭をなでられた気がした。
(画像は 欄紗理 作)