4章-(1) 先生の誕生日
5月21日、香織は起こされもせず、6時に目覚めた。夕べからのわくわく気分がまだ 残っていた。
今日は若杉先生に、手造りの靴下を差し上げる日、先生の誕生日だ。夕べ、やっと自分でも気に入った物を、仕上げることができた。
テストのあるその週は、洗面所の掃除当番に当たっていた。香織ははずんだ気持ちのまま、大きなエプロンを掛けた。洗面所に向かいながら、中庭を見下ろすと、一面のあじさいの緑の葉の間に、小さな花芽が顔を出している。もう2週間もすれば、雨期に入る前触れを告げていた。
香織は上級生に教わった通り、5台の洗面台と蛇口にクレンザーを振りかけ、スポンジで丁寧に磨いた。水をかけて洗い流し、乾いた雑巾で拭き上げると、新品の様に光って見えた。
「おはよう、寝坊しちゃった。4時まで千奈につき合ってたら、眠くって」
廊下の掃除当番の中山さんが、あくびをしながら入って来て、洗面台で顔を洗った。中山さんと宮城千奈は同じクラスで親友だった。2人はよくへやを行き来して、新聞部の仕事をいっしょにやっているらしい。
香織が掃除を済ませて自分のへやへ帰る頃、中山さんはまだ廊下の掃除を、のろのろとやっていた。
「靴下のできあがったの見せて」
食堂から帰るとすぐに、直子がせがんだ。夕べ11時まではつきあってくれたが、眠気に負けて、直子は先に休んだ。それから1時間頑張って、香織はとうとうブルーの長い登山用靴下を編上げたのだった。
「ほらこれ、今からアイロンで仕上げしてくるわ」
「わあ、すごい。オリには特技があるんだね。うらやましいよ。この縞が すてき。グレーと赤がちょっぴり、は思いつかないな。Aプラスだな」
直子がひとことつけ加えた。
「愛の力、ってすごい」
「え? なんのこと?」
「若さまが好きなんでしょ、わかってるって」
「ちがう、ちがう。私、ただのお礼のつもりだけだよ」
香織はあわてて、そう言った。
直子は声の調子を変えて、こう言った。
「恋人同士とか、仲のいい夫婦とか、たいてい雰囲気とか表情が似てるんだよね。あたし興味あるから、観察してそういう結論というか、予測みたいなの持つようになってるの」
それで、香織と若さまはよく似ていると言うのだ。結城君と香織は似ても 似つかない。
「あたしも結城君とは、絶望的だよ。島君の方が近いのはわかってるけど、だからって、憧れは消せないよね」
直子は血色のいい唇をへの字に結んで、しおれて見せたのだった。
昼休みに、香織は黒い小さな紙袋を抱えて、ドキドキしながら職員室へ 向かった。
先生の机のまわりには、上級生たちが群がっていた。香織が近づくと、つつきあったり目配せして、わざわざ振り返る者もいた。
「あの子よ、1年生で特訓してもらってるって」
「ふうん、いいなあ」
ささやき声もしていた。
香織が引き返そうとすると、若杉先生が立ち上がって呼び止めた。
「笹野、悪いな、放課後にしてくれるか。この通りなんだ」
「はい」
うわあ、先生、ひどいな、放課後も来ちゃお。そうしよう、じゃましてやる! 口々に言ってる声が聞こえる。
「だめだよ、あの子は勉強の成果を、見てやることにしてるんだ」と先生。
ほんと? それだけ? 先生、あやしい!
香織が戸口を出るまで、そんな声が聞こえていた。
放課後、再び先生を訪ねると、先生の机のまわりには、リボンをかけた紙包みや箱、袋、手紙などがいくつも重ねられていた。香織はおずおずと黒い紙袋を先生にさしだした・
「先生、お誕生日おめでとうございます。これ、自分で編みました。登山の時、使って下さい」
先生はいっしゅん、香織の顔をまじまじと見つめた。ありがとう、といつものように打てば響くように、明るい声が返ってくるはずだった。
ところが、先生は視線を香織からはずして顔をゆがめた。下がり目が泣こうとしているのか、怒りだそうとしているのか、しかめ顔になって、両手で頭を抱えた。
それから、ふいに立ち上がって、香織の紙袋をひったくると、袋の口を開けて、中からきちんとたたんだ靴下を引き出した。
「有り難すぎて、何と言っていいか・・」
その声は有り難いどころか、皮肉いっぱいの響きだった。
(画像は、蘭紗理作)