5章-(5) 結城君 B F 公認
香織が学校帰りの制服のまま、カバンを持って、グリーンベンチへ向かっていると、息を切らしながら、全速で結城君がやってきた。バレ部ーの練習用ジャージーの上に、分厚いジャケットを引っかけていた。カバンは持ってはいない。
「5分も経ってないよ・・」
言いかけた香織を、ぐいと引き寄せて、かき抱いた。ドックンドックンと 心臓が早鐘を打っている音が、香織の胸にひびいた。
「れ・ん・ら・く、あったのか?」
あえぎながら、彼が言った。
「朝のママの話では、今のところ変わりなくて、手術がうまくいったようなの。先生がくも膜下出血の手術が専門で、有名な方だそうで、ママも気持ちが落着いた、って言ってた。私、帰るつもりでいたら、今はダメ、週末にしなさいって、止められたの・・」
「そうか。うまくいったってことは、病変があって、すぐの時間に救急車を呼べたってことだね。それはよかった。くも膜下出血は、時間が問題なんだ。 遅すぎると、後遺症が残ったり、危なくなったりするんだ」
「パパは仕事から帰った玄関で、ふらふらっとして頭が痛いって、言ったんですって。ママが迎えに出た時だったから、すぐに電話して、救急車を呼んだのよ」
結城君はそれを聞いて、やっとほっとしたように、香織をベンチに座らせ、自分も身をくっつけるようにして座った。
「またオリは寒くなった、って言うんだろ。風があるからな。この森には」
と言いながら、自分のジャンパーを広げて、その中に、香織を包むように 抱き寄せた。
「う、あったかい、ありがと」
「熱ーいコーヒーか、紅茶を買ってくるとよかったな」
「いいよ、これで・・」
「そう言えば、おじさんはあの時、ジンジャーエールを飲んでたよな。アルコールを控えてるんだ、高血圧かな、と思ったのを、思い出したよ」
結城君は、パパと2度目の食事会をした、ウッドドールでのことを言って いるのだ。香織もあの時、同じ事を思ったのだった。
結城君はまたきゅうっと抱き寄せて、言った。
「おじさんに逢いたいよ。週末にいっしょに大阪へ行きたい。ポールだって、夕べすごく心配してさ。見舞いに行きたいって言ってた」
「まだ集中治療室にいて、面会禁止なのよ。ママだって、外で見守ってる 時だから・・」
「・・かえって迷惑だね。もう少し・・」
結城君が言いかけた時、香織の胸ポケットのケイタイが鳴り始めた。
香織が急いで、取り出すと、ママの名前が見えた。
「ママ、ケイタイ買えたのね。よかった、聞こえる? パパはどう?」
「ああ、香織、聞こえるわ。すごいのね、ケイタイって。買ってほんとに よかった。パパはまだ ICU の中だけど、状態は今はいいそうよ。先生が術後の経過を、丁寧にみてくださってるの。香織は今、どこにいるの? 教室? 寮の中? 散歩中?」
「今、ネムノキの森の中のベンチにいるの」
「まあ、寒いでしょうに。まさか、そんな所で、編み物してるんじゃないで しょうね。風邪引かないように、寮に早く帰った方がいいわ。香織のことだもの、夕べはろくに寝てないでしょ。あなたが倒れたからって、私は看病に行けないのよ、わかってるでしょ?」
「大丈夫よ、ママ。今ね、結城君が、私の隣に座ってるの。見舞いに来て くれたの」
あ、言っちゃった! 香織は首をすくめた。結城君にもママの電話の声は、すべて聞こえていた。彼の胸のところで、話しているのだから。
ママが言った。
「それなら安心ね。あの人はしっかりして頼もしいから、香織に風邪引かせたりしないものね。よろしく言っておいてね。また何かあったら電話するし、夜9時過ぎに電話するかも」
「ママ、電話するなら、ケイタイじゃなく、寮の電話の方にしてね。ルームメイトのアイさんは、東大医学部目指して、猛勉強中だから、ケイタイの音を立てたくないの。アイさんのママは、パパと同じ病気で亡くなったそうよ。それで、あの人、東大の医学部を目指してるのよ」
「まあ、そうだったの。お気の毒に・・。そんなすごい人と同室だったの。 わかりました。じゃ、またね」
電話が終ると、結城君が嬉しそうにクックッと笑いながら、香織をまた抱き寄せた。
「ママ公認のボーイフレンドか。いや、恋人だな。ネムノキの森にいる、ってオリが言ったろ? 恋人の森にいる、ってことだ。恋人らしくしなきゃな」
結城君は香織のひたい、頬から唇にやさしく長くキスをした。
香織は全身がほうっとあったかくなって、しあわせ感につつまれていた。 辛い時期なのに、こんなにしあわせで、嬉しいこともあるのだと・・。
ママがあんなにあっさりと結城君を認めてくれたのも、嬉しいことだった!パパに今の私を見せてあげたい。パパは言ったっけ、「香織は幸せ者だ」って。ほんとにそう。パパがそう言ってくれたことが、最後の思い出の言葉になんかなりませんように!
必ずよくなってね、パパ! 心からほんとにほんとに祈ってます!