6章-(5) 手術終らず
「へえ、1学期に1枚だけニットの何かを編んだのか。それでどうして 〈時の人〉になったんだ?」
と、貴史兄がふしぎがった。志織は説明を続けた。
「ミス・ニコルが、文化祭にこれを展示して、買いたい人が多いだろう から、寄付金を集めよう、夏休みにできるだけたくさん編んでおいてね、 と オリは言われたの。あたしも夏休みに帰国してたから、オリが全部で 14枚編み上げたのを見てたわ。いっしょに画材店へ行って、額縁を買ったり したのよ。
編みものしてるところはママに見せないように、服部公園に散歩に出ては、オリは木の下で編んでたの。私は馬場で楽しんでたけどね。寮に帰る荷物を作る時に、そんなにたくさんの額縁ニットだったから、ママにバレちゃったのよ」
「ハハ、そいつは面白いや。禁止を破ったんだから、おふくろのことだ、 かんかんに怒ったろ」
「その逆よ。こんなにステキなものが、オリに作れるの、と感激しちゃって、オリの能力を初めて認めたのよ。その後、9月の文化祭で、そのニットが大評判になって、注文者を限定したのに、今もまだ注文をこなしきれないほど多くなったものだから、編み続けてるけど、1月までかかるんですって。新聞社の人たちが来て記事になったし、週刊誌の記者も来て、掲載されたの。
ミス・ニコルのところには、その後、あちこちから取材申込みがいっぱい あったのを、 高校生だからとお断りになったんですって。それなのに、 寮まで押しかけてきた百貨店の営業員が、個展をいずれお願い、と約束を 取って帰ったそうよ」
「へえ、そんなことがあったのか。すごいね。ママの禁止はもう無効だね」
「そりゃそうよ。ママは文化祭へも出かけて行ったほど、今はママがファンになってるんですもの」
香織は兄と姉が何か話をしてるな、ぐらいには感じたが、何の話か気にも せず、3列並んだ椅子席の3列目にひとり座って、壁に寄りかかりながら、黙々と編み進めていた。今日中には、2枚目が出来上がりそうだ。
ママは落ちつかなく、腕時計を見たり、手術室の緑の電気がまだついているのを、見つめていたり、売店へ皆の飲み物を買いに行ったり、少しも座っていられない気持ちでいるらしかった。香織の側には、ウーロン茶のボトルを置いてくれていた。
「12時だわ。おとうさまのお昼を吉野さんに、お願いすることにする わね」
ママはケイタイを取り出そうとはぜず、廊下の向こうにある、公衆電話に 向かって歩き出した時、手術室の隣のドアが開いて、看護師さんがひとり 出てきた。
ママはすぐにその人に尋ねた。
「手術はもう終ったのでしょうか?」
「いえ、まだかかりそうです。先生からのこと付けで、ご家族はいったん お帰りになって下さいとのことでした。手術は順調で、差し迫った状態ではないそうです」
「ありがとうございます! では、先生にくれぐれもよろしくお願いいたし ます、とお伝え下さいませ」
ママはそう言うと香織をつつき、志織たちに帰りましょう、と声をかけた。
「吉野さんにおとうさまのお昼を頼む前でよかったわ。急ぎましょ、お待ちかねだわ、おじいちゃんが・・」
と香織たちを急き立てて、4人で車に乗った。
帰り道の途中で、志織が急に言い出した。
「あそこの店が、画材店なのよ。おにい、車を停めて。オリはまた額縁が たくさんいるでしょ。今、ついでだから買って行きましょうよ。品物はどれかわかっているし、5分もかからないわ」
言い出したらきかない志織のことだから、兄が車を停めると、さっさと車を降りて、店に入りながら、車の中にいる香織に
「30個くらい、いるでしょ?買っちゃうよ」
と叫んだ。
「多すぎるよ、そんなに・・」
と香織は言いかけて、そうだ、3年生用はぜんぜん準備していないんだ、 と思い出した。30では、3年生分にも足りないどころか、希望者はもっと もっといるのだから・・。でも、それは寮に帰ってからにしよう、と思い 直して、志織の言うままにしておいた。
志織は額縁を詰めこんだ、大きな茶色の袋を持って、車に戻ってきた。
「ママ、後でお代はちょうだいね」
「なんだ、志織が買ってやるんじゃなかったのか」
と、貴史兄が笑った。
家に帰りつくと、おじいちゃんがこたつに座って、待っていた。
「手術は終ったのか?」
「まだ終らないけど、いったん帰って食事してくるよう言われたの。お待たせしましたね、おとうさん。けさ、ほぼ準備しておきましたから、すぐ出しますからね。あなたたちも、手を洗ってらっしゃい」