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2-(1) ひとり遊び
「おとうさんっ、自転車を借りるけんね」
マリ子は階段の下から2階にむかってさけんだ。タイミングは計算して ある。おとうさんが碁盤の前に落ちついてから30分ほどの、気合いが入り始めるころに、願い事はするにかぎるのだ。
「ん? 弘の自転車に乗らんのかちこ?」
おとうさんは上の空で、さけび返した。
「お兄ちゃんは正太さんと町へ行ったが」
お兄ちゃんの自転車がなくて、しめしめだった。あんなぼろ!
「ほなら、しょうがねぇな、気をつけて乗れちこ」
「はあーい!」
マリ子はくすっと笑ってから、土間のはしにデンと立っている、おとうさんの自転車にとびついた。
「マリちゃん、あんまり はちまんせんでよ、気ぃつけてよ」
茶の間で家庭科のテストの採点をしていたおかあさんが、目を上げて注意 した。マリ子はうなずくかわりに、くるっと回って、空色に白い花もようのめずらしいスカート姿を、おかあさんに見せた。
ぬいもの上手のおかあさんが、いそがしい学校の仕事のあいまに、6日も かけて、夕べやっとぬい上げたのだ。スカートなんてマリ子にはうれしい どころか、むしろめいわくだけれど、たまにはおかあさんを喜ばせるのも、マリ子のつとめかもしれなかった。
思った通り、おかあさんは満足そうに にっこりしてみせた。
「自転車は、あとでみがいて返しなさい」
「はあい」
注意するおかあさんの口ぶりは、先生丸出しだ。つられて、マリ子も生徒 みたいに神妙にお答えする。
けれど、外へ出ると、マリ子はすぐにマリ子にもどるのだ。
わあああ、さけび声を上げて、家の下の坂道を寺の階段へ向かって、自転車を走らせた。
と言っても、おとうさんの自転車のサドルには、まだ乗れない。おとうさんのは、26インチの男乗り用の、がっちりしたやつだ。手入れがよくして あって、スポークの一本一本まで光っていた。サドルはぐんと高くて、お兄ちゃんにも足が地面に届かない。
マリ子はペダルの上に乗っかって、道をもう片足でこぐか、3角のパイプの間から片足を向こう側のペダルに乗せて、3角乗りするしかない。
寺の下のカキの木のむこうから、正太の家のとなりの竹次さんが、くわを かつぎ、泥に汚れた地下足袋をはいてやってきた。3時のお茶に帰るのだ。マリ子はペダルをこぎながら、軽く頭だけ下げた。竹次さんはちろっと横目で見ただけで、にこりともせずすれちがった。
竹次さんは寺の周辺にいくつもたんぼを持っていた。気むずかし屋で、ええかっこしいで知られていた。たんぼに行くのに、鏡をのぞき念入りにポマードを頭にぬって、その上に麦わら帽子をかぶるのだって、俊雄のばあちゃんが笑ってた。
寺の階段の下の広場に来て、マリ子はひょうしぬけした。土曜の午後なのにだれもいない。女の子たちは、たぶん西の加奈子の家に集まってるのだ。
新学期が始まって、マリ子だけ別のクラスとわかってから、組み合わせは自然にきまっていた。朝、学校へ行く時は、加奈子がさそいに来て、静江と3人で行くのは、かわらず続いていたけど、その他は、マリ子は〈はみだし〉のことが多いのだった。
でも、マリ子には男の子たちがいた。ビー玉遊び、魚取り、山でのかくれんぼ、へび探し、こっちの方がマリ子にはよっぽど楽しい。今日はその連中 までいないとなると、ひとりで楽しむしかない。
マリ子はサドルに初乗りしてみることにした。寺の石段に足をかけて、サドルにまたがった。ぐうんと地面が低く見える。足先をせいいっぱい伸ばしても、地面には届かない。
ぐっと力をこめてペダルをふんでみた。自転車はよろついた後、まっすぐに走り出した。
なんという高さ! なんという気持ちよさ! なんとなめらかな走り!
まわりのたんぼは、水を張った中に、植えて間もない稲が、頼りなさそうに初夏の風に吹かれていた。
マリ子は短いおかっぱ頭をふりたてて、こぎにこいだ。帯野川につきあたると、左に曲がり村道ぞいにぐんぐん進んだ。県道とちがって、めったに車は来ないので、思いのままに走れる。
となり区域の二日市との境のところで、また左に曲がって道なりに坂を登ると、山すその西浦地区の道にもどってくる。
マリ子はこれを3周くり返すうちに、汗びっしょりとなり、自転車の走りも安定して、左右なめらかに曲がれるようになった。
さあ、これからだよ。
マリ子は口元をゆるめて笑った。わくわくしてくる。やりたいのは、じつはこれからだった。そう、西どなりの岡田のおっちゃんみたいに、曲乗りをすること! あこがれのそれを やってみるには、おとうさんのしっかりした自転車でなくてはできないのだ。