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エッセイ:どっきり体験集(1)~(10) 9.就職決定の頃

 私がその K 女子校に勤めることになったのは、親友の淑子のおかげ、いわば彼女の代わりだった。

 大学4年の1月だったか、卒論提出も終えた頃、淑子が私に「迷ってたけど決めたわ」と言った。彼女は成績優秀なので、大学の推薦を受けて、近くの K 女子高校の教員公募に願書を出すつもりだったらしい。ところが、別の教授から、大学に残って、まずは助手をしてみないか、と誘われたのだとか。どちらにするか、しばらく迷ったのだそうだ。

 そこで、山口県の大学で、ドイツ語教授をしている父上に相談すると、大学に残る方を薦めてくれた。それで、女子高の方は、願書を出さないことに決めたという。

「もし、よかったら、あなたが K 高校に行ってみない? 今日が締め切りなんだけど・・」

 えっ、とばかりに驚いて、教員志望の私はすぐその気になり、これから探すつもりで、用意してあった履歴書を持ち出して、寮を飛び出した。その女子高は、女子大のすぐ近くにあり、歩いて5分もかからなかった。

 事務受付に履歴書を差し出すと、「締め切り5分前でしたよ」と、事務員が笑顔で受け取ってくれて、すぐに寮を飛び出してよかったと、胸をなでおろした。

 初めての試験と面接には、よそと全く違っていたので、面食らった。英語主任の G 先生が、テープレコーダーと、高校3年生用のリーダーのテキストを私に手渡すと、レッスン8を読んで録音して、と言い残して、席をはずし、私ひとりにしたのだ。

 中学時代から英語弁論大会で賞を得たり、大学ではシェイクスピア研究会に加わり、『リア王』の英語劇に、悪女のゴネリル役で、出演もしたこともあって、朗読は得意な方だった。

 ひと通り目を通して、録音をすませた後、G 先生から、出身高校や大学でのサークル活動、家族などを訊かれ、そのすぐ後に「合格」と言われて、ドッキリ!  こんなに簡単に決めていいの、と半信半疑で、しばらくは信じられない思いだった。だって、受付に駆けこんでから、1時間ほどで、決まってしまったのだから・・。

 ずっと後に聞かされて、もっと驚いたのは、実はこの高校で、教育実習をしたことのある女性が、私よりも先に応募して、すでに正教員に決まっていて、英語教員の担当時間数は満たしていたそうだ。

 そこへ更に私を入れることにしたために、各学年の英語の授業を、週4時間から一気に7時間に増やすことになった、と聞かされたことだった。当時の教務や教職員組合は、柔軟で太っ腹な人が多かったのらしい。校風そのものも、自由でラフだったのだ。

 私の就職はこんな風に難なく決まって、3月で寮を出るとしても、4月以降も東京に残ることになり、あとは住まいのアパートを、どこかに探せばいい、と気楽になっていた。

 ところが、淑子の方は、3月に入った頃、大学に残って助手として雑務をするより、教員となって教える方をやりたい、という気持ちが強くなったと、遅まきながらの学校探しをしていた。

 大学の斡旋で応募したのが、都心にある某女子高校だった。優秀な彼女のことゆえ、すぐに合格したものの、それからが彼女にとって、長い苦労の始まりとなったのだ。古い体質の学園だったようで、組合はなく、同族支配の経営陣に、理不尽な要求をされ、生徒によかれと思う案は拒否され続けで、教員たちは不満を募らせていて、淑子は仲間と頭を悩ますことになり、後にひそかに組合を作ったりしたそうだ。

 その後何度も、淑子に言ったことがある。あなたが最初の予定通りに、K女子高の教員になっていたら、のびのびと教えることができて、私の方がどこかの女子高で、なんとかやってる形だったかもしれないよ、と。

 とりわけ、私が K 女子高に入ったことで、英語主任の G 先生が、私をある男性と結ばせようと、4月の初めから画策したために、私のその後の道が、今につながる方向へと辿ったのだから、淑子が吉祥に来ていたら、今の私の夫と結ばれていたのかもしれないよ、と言ったこともある。

 すると彼女は大きく笑って、そんなこと絶対ないって。あなただから G 先生が目を留めてくれたのよ、と言ってくれるのだった。

 二人それぞれにとって、運命の道が最初から決まっていたわけではなく、時々の選び方、決意の仕方で、その後の道筋は、しぜんに開けて行くように思えたものだ。

 追記すれば、彼女は67歳という若さで、ガンのため亡くなったが、その年の7月に東京女子大の「学内公開インタビュー」に、私の出演が決まった時、これは授業としての学内の学生対象だったのに、彼女は担当教授に強くお願いして、出席してくれた。その日共に写真を撮り、帰りに喫茶店に寄りしたが、病気治療中のことなど一切話してくれなかった。12月に娘さんから、葬儀の知らせを受けた時の激しい衝撃! あの7月の出席は、私との別れを覚悟し、最後の思い出を残すためだったのだ。

 後に娘さんが送ってくれた長い手紙で、病気については、家族以外の誰にも知らせなかった由。最期の頃、私と英語の会話をし合っているらしい夢を見ているらしく、うわごとをよく言っていたことも記してあった。



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