3章-(5) 香織は幸せ者
翌日の昼休みに、パパがネムノキの森のベンチで待っていてくれた。午後にはもう、飛行機でパパは大阪へ帰るのだ。
香織の作品の1枚を見せると、ほう! としばらく、しみじみと見つめて いた。香織の好きなガクアジサイのモチーフだった。
「ほんとに綺麗だね。寄付集めのためなのに、希望者数を制限したのを、 新聞がほめていた。あれは、香織の体調を、クラスの仲間が心配してくれた配慮だったことまで書いてあった。それほど欲しがる人が多かったんだね」
「そうなの。寮の卒業生全員が、卒業式までにほしいと言ってるし、下級生も、学校のクラスの人たちもいるし、考えてると、数がいくつかわからなくなるから、もう数えないことにしてるの。横井さんとか内田さんが、代わりに数を数えてくれているわ」
パパは大きく頷いて、言った。
「成績はビリでも、良い友だちが学校にも寮にもいて、ボーイフレンドも いて、その上、こんなものを作れる腕を持ってるのだから、香織はぜんぜんいじけることはないぞ」
「ん、もういじけてなんかいない。勉強の予習復習もできるようになったし、散歩も続けてるよ。ママもちゃんと認めてくれてるし」
「そうか。香織が幸せ者で、パパはほんとに嬉しいよ。じゃ、午後の授業があるだろ。編み物でムリしすぎるなよ」
「ん、自制するのも覚えたの。やり過ぎると、次の日にダウンするって、 わかるから」
「よしよし、じゃ、元気でな」
パパは大事そうに香織のアジサイニットを返すと、校門へと帰って行った。
パパに〈香織は幸せ者〉と言ってもらえて、ほんとにそうだ、と身体中に
その思いが染みわたるほど、嬉しくなった。
10月は忙しい月だ。へやの引越し、中間考査3日間、第3週目の週末は結城君たちの文化祭見学があるし、運動会がある。そして、その次の日曜日には、ワンゲル部の登山もあるのだ。
香織は編み物はムリしないことにして、週3枚に決め、中間考査の準備に 早めに取り組むことにした。土曜日には、前田さんと芦田さんか、内田さんと横井さんの2人組で、香織のへやを訪れ、荷造りをして数十分ほど過すと、投函しに帰って行く。その時間、同室のアイは気をきかして、参考書を手に2階のラウンジへ行き、勉強していてくれるのだった。これも有り難い幸せのひとつだ。
香織は散歩の時に、正門から外へ出て、菓子屋や果物屋に寄ったり、銭湯の側で饅頭を買うようにしていた。内田さんたちが来てくれる時に、時間は短いけれど、それをいっしょにつまむのも楽しみだった。
結城君の文化祭の方は、コーラスを聴きに、香織は直子と出かけて行った。
男性だけのコーラスをじかに聴くのは初めてだった。「箱根八里」「荒城の月」などは男声で聞くと、力強く重々しく、情景が見えるようだった。 「少年時代」「心の旅」「チャンピョン」「大都会」「宇宙戦艦ヤマト」 など、知ってるようで、全部は知らない歌が聞けて、素晴らしいと思った。結城君はバスだから、重々しさを添えているのがよくわかって、胸がドキ ドキした。香織は大きな拍手を送った。
コーラスの後には、演劇が次々と演じられたが、そのひとつだけ見ることにした。男子校なので、女性に扮する人は、細身で色白の男子が選ばれるらしい。声は高くしても、やっぱり男子らしさが出て、微笑ましくなる。着物姿で娘を演じた人は、着物を左前に着ていて、おかしいね、と香織と直子は 笑い合った。
香織は中間考査の勉強法として、テキストの範囲に当たる部分を、丁寧に 読み、メモして覚える形で進めていたが、山口さんはまったく違っていた。いつも開いて使っている分厚い参考書のような本を、いつもと変わらず読んで、メモし、口の中でつぶやきをくり返しているだけで、普段使っている テキストは開きもしないのだ。自分が進めている勉強を1日も崩さないのだ。できる人は、そんな風に物事を、順序立てて全体を学んでいくのだと、感心してしまった。
香織の場合は、テスト範囲の部分だけを覚えているが、テストが終ると、 頭に残っていないような気がする。全体の中の一部だけに触れていて、全体を見ていないのかも、と気づかされた。それで、香織はテキストの最初の「目次」をよくよく見つめ、自分がどの部分を今やろうとしているかを、 確かめるようになった。
その部分だけにしても、しっかりと覚え込み、次の期末の時に、続きをまた繋いでいけば、順に繋がった知識になっていくのでは、と思えてきた。そう気づくと、頭の中で繋がっていくものが見えるような気がして、勉強すれば心に積み重なっていくことが実感できる気がして、楽しくなってきた。
勉強も、編み物も順調に進んで、中間考査の日を迎えた。