1章-(6) 3/29母姉移転
その後の数週間は、天地がひっくり返るような目まぐるしさだった。
父も母も、それぞれの高校で、1年で最も仕事の忙しい学年末だった。しかも、父は、卒業を迎える生徒達の担任で、4月からは転任先との連絡があった。音楽が専門の母は、その年は担任もあって、多忙をきわめていた。
そこへ、家庭の方では、銀行や弁護士との話し合い、打ち合わせが続いた。それに家を出る荷物のしまつと、新しい住まいを探す手間のあわただしさで、父母の冷戦状態はゆるむ気配もないまま、別暮らしの日はぐんぐん迫ってきた。
母は手回しよく、ピアノのお弟子さんの手づるで、あるお宅の〈離れべや〉を見つけてきた。そこはこれまでのピアノの生徒たちも通える、わりあい近いところにあった。しかも以前住んでいた人も音楽系の人で、バイオリンを弾いていたとかで、防音装置のあるへやもあり、母には好都合の住まいだった。
母と、卒業式の重圧から解放されたちはるといっしょに、みゆきも初めて その住まいを覗いたのは、春分の日のことだった。
6年2組の人たちは、小山先生といっしょに横浜の〈牧場〉に行っている はずだ。みゆきも行こうと思えば行けたが、姉と母の住まいを見たい誘惑の方が強かった。
この日、父は残り少ない休日を利用して、アパート探しに出かけていた。 そちらもついて行きたかったが、「疲れるだけだよ、候補を絞ってからが いい」と、父に止められた。
姉たちの住まいは、お屋敷の〈離れ〉らしく、和風の平屋でこじんまりしていた。防音室だけは洋間で8畳ほど、隣に6畳の和室と4畳半ほどの台所べやがあり、南側に日当たりのいい縁側があった。
母は花鉢のほとんどを、自分の高校に運んでしまい、残っているシクラメンなど3個がここに置かれるはずだ。浴室はかなり狭いが、それでもみゆきは羨ましくて、心がねじれるようだった。
ここにいっしょに住みたい! いいでしょ、なんでも我慢するから!と、口に出して叫べたらどんなにいいだろう。
でも、言えない。それがやせ我慢なのか、反発なのか、意地っ張りからなのか、わからない。ただ、胸の中のたまっている怒りに、妬ましさまで加わって、何か言葉を発すれば、涙となって炸裂しそうで、そんな無様は見せたくないのだった。
何を持って来て、どこに置くか、母とちはるは配置まで話し合い、ちはるはノートに書きつけている。
「ベッドは置けないし、タンスは縁側に2つは置けないね。大きすぎて入りそうもないし・・」
母はひとりごとをつぶやきながら、大きな家具は売りに出すリストを作ってもいる。
みゆきは忘れられたような置き去りにされたような、切なさを感じていた。
3月29日、姉は母といっしょに移って行った。荷物を乗せたトラックの 後を、母の車はついて行く。車の窓からちはるは身を乗り出して、陽気に 叫んだ。
「みゆき、メールしてよっ、行ったり来たりしようねっ!」
みゆきはその日、父が決めてきたアパートの方へ、ついて行くことにして いた。母のへやで、もう一度さびしい思いをしたくはなかったのだ。
教員住宅の空きはあるにはあったが、父の勤め先には遠すぎるため諦め、 3月も末になってようやく、H市の麻川ぞいの〈さくらアパート〉に決めたのだった。