からっぽ
ふと疑問に思った。
僕にはライターやブロガーという職業が全く解らなかった。文章を書くことで生計を立てようだなんて無謀だと思った。一体どんな感情で文章を書くのだろう。
Twitterとブログの大きな違いはなんだろう。そんなことを考えていたら6限が終わっていた。結局答えはわからずじまい。帰りの中央線に揺られながら、Twitterを見てまた思った。10代という多感なモラトリアムの中にいて多くの同世代と触れ合っていると感じる。
彼らは人の文章を読もうとはしない。自分の言葉を読んで恍惚とすることはあっても、他人の文章を深く読み解き分かろうとする努力はしない。そういうものだ。
だから、Twitterの140という制限は彼らにとって好都合で簡易的なコミュニケーションの場として最適だった。また、Twitterには何十万人もの思想家やら言論者やら議論マニアが日々犇めきあっている。彼らの言葉は、僕に言わせればあまり美しくない。これは内容がどうのうでなく、表現としての美しさだ。浅はかな論を拙い言葉で交わしあい、あれやこれやと議論する。いや、この表現自体もおそらく明日目を覚ませば無粋に感じてしまうかもしれない。ともかく、彼らは小難しい言葉を並べるだけの存在になっている。これは僕も最近よく感じることだが、難読な漢語ばかりで作られた文章は表現として美しくない。僕が思うに、究極の表現とは小学生でもわかる言葉だけで、その語順によってよりいっそう含蓄深さを醸し出すものだと思っている。より詩的で、躍動感を伴った文章。。。
あまり見ない。
ちなみに僕はこれが大の不得意で、頭の中には難しい言葉ばかりが浮かんできて、ストレートに伝わる表現を探すのにてこずり文字通り言葉に詰まることが多い。
僕は文章化することによって全てを吐露したい。多くの10代にとって文章書くことは面倒なことらしいが、僕はそうは思わない。だってそうじゃないか。
例えば日本一の絶景を見た時、それを1年後も思い出して100%の濃度で味わうことができるだろうか?言語化はそういった時間と感情の問題を全てではないが解決してくれる。その時、何を思い、何をまず手に取り、何をしたのか。流れの中で氷解したインスピレーションを何度も再読できる。
僕はTwitterが嫌いだ。
支離滅裂のようでいて一貫している。迎合した10代の波に流されて自分の文章が自分でなくなってしまうようで気分が悪くなる。ひょっとして自分ができる最大限の反抗ですら飼い慣らされた檻の中で暴れ回っているだけのようにおもえて不甲斐ない。
そして、こんなことをTwitterで書けば「こいつ、病んでいるのでは?」などと言われる。そこで折れて、「いや、深夜テンションだったんだよ」とか言ってしまいそうになる。それがコミュニケーションとしては正解なのかもしれない。だからここに書く
僕は、そこら辺の大人よりも同世代の人に激しい胃酸を覚える。関わっているコミュニティの関係上、嫉妬もあるかもしれない。でもなんとなく、できあがりすぎたおあつらえ向きの人間関係に違和感を覚える。
こう身近に絶望していると、世間体やらでテレビの不穏な内容にも絶望する。結局何もかもに絶望しきって何かを悟ったとき、早計かもしれないが逃げ場を求める。
僕の場合それが音楽だった。
音楽は誰にも口出しされない。好きな音楽は好きな音楽だと胸を張って言える。どんなに否定されようとも、そこは個人の意見ですと一蹴できるからだ。
でもココ最近、これについても自問している。僕は音楽に対して心のどこかで見返りを求めているのだ。本来音楽はそんなものじゃない。例えば、このブログのようになんの足しにもならないけど、好きだからやる、これが本当のかたちだ。結局僕は、自分が一番忌み嫌っているはずの同世代や顔も知らない誰かからの評価ばかり気にしていたんだ。それが普通なのか。普通か。
僕はまだ未熟すぎる。