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「ゴール裏論争」に関するとある一考 - その在り方と新規層受け入れについて -

ここ数日、Xのタイムラインを賑わせている「ゴール裏論争」(昨日は「ゴール裏」というワードが、Xのトレンドに入っていました)について、徒然なるまま文章を書いてみたいと思います。

もしよろしければ、最後までお付き合いくださいますと嬉しく思います。


先ず始めに、「ゴール裏論争」の「論争」というワードについて、Wiktionary(※)によると下記のように定義されています。

論争:意見の違う者が互いに自分の説を主張して論じ合うこと。

Wiktionary」より

Wiktionaryとは、あらゆる言語(日常的な話者コミュニティを持たない人工言語は除く)の語句を対象とした、語義、発音、語源、活用、用法、訳語、関連語などを収録し、最終的には国語辞典、漢和辞典、英和辞典、独和辞典、類語辞典などの網羅を目指している多言語の多機能辞典のことです。

しかし、その「論争」は、参加する一人ひとりがそこで使う言葉の定義が異なったまま、前提条件が整わないまま論じ合っても、決して有益なものを生み出さないのではないでしょうか。

Xでの「ゴール裏論争」は、その言葉の定義が参加者の間で曖昧なまま各々が自らの意見を主張するだけ、論じ合うこともほぼないように見受けられるので、論争になり得ませんし、“不毛”である、とさえ私は感じます。

翻って、Xでの論争は、例え参加者が二人の「一対一」と設定しても、そしてお互いが同じ「時」を共有しても(一定時間その論争に徹しても)、やり取りにタイムラグが発生し、かつその論争を目にする外部の声が可視化される以上、そういった「声=第三者の意見」が論争に介在する可能性が生まれるので、論争があちこちへ飛んでしまい収拾がつきづらくなるように感じます。

正にイーロン・マスクが標榜する「対戦型」のコミュニケーションに陥ってしまい、お互いの主張をぶつけ合うことでより良い考えを生み出すという弁証法からはどうしても遠ざかってしまうので、「Xにおいては論争(議論)は成り立ち得ない」というのが私の持論です。

※それでも、私はX上においてやり取りを続けることの意味はある、と考えています。


ただ、Xにおける「ゴール裏論争」は成り立ちづらくても、上述の阻害要因の一つである「言葉の定義の曖昧さ」を解消すれば、繰り返される「ゴール裏論争」に風穴を開けられるのではないかと思い、この文章を徒然なるまま書き始めた次第です。続けます。

先ず、「ゴール裏論争」における一番の主役である「ゴール裏」という言葉について。なお、この文章においては、私が名古屋グランパスのサポーターを自認しているので“名古屋グランパス”の範疇に限らせていただきます。

名古屋グランパスは、ホームスタジアム「豊田スタジアム」のゴール裏である「ゴール裏指定席北側」を下記のように表現しています。

「12番目の選手たち」の魂が宿るゴール裏エリア

名古屋グランパス公式サイト」より


このように、名古屋グランパスはゴール裏での観戦者を「選手」と表しています

ここで「選手」の定義を論じるようなことはしません。何故ならば、ファン・サポーターにとって「選手」とは、各々が想いを託し投影する対象であり、その想いは何人にも侵すことができないと思うからです。

しかし、「選手」に求められることについては、どなたにとってもそれほど差異はなく、むしろ明確とも言えるのではないでしょうか。

つまるところ、「選手」に求められることは「勝利」なのではないでしょうか。

ですので、この文章では、名古屋グランパスのゴール裏に集う「12番目の選手たち」が追い求めるのは「勝利」、そして求められることは「勝利に繋がる応援」と仮置きさせていただきます。


では、その「勝利に繋がる応援」とは何か。名古屋グランパスが重ねて来たこれまでの勝利を思い起こせば、イメージしやすいのではないかと思います。

例えば、試合終盤でスタジアム中のハンドクラップが鳴り響き、クリーンシートで試合を終わらすことができた2017シーズンのJ1昇格プレーオフ決勝「アビスパ福岡」戦。同様に、スタジアム中に鳴り響いた各チャントにより勝ち越すことができた2018シーズンのJ1リーグ 第21節鹿島アントラーズ」戦。記憶に新しいものですと、今年の2024シーズン「横浜F・マリノス」戦「ジュビロ磐田」戦も、ゴール裏の声と拍手と旗が、それぞれ後半の自軍側での2ゴールを呼び込んだと言えるのではないでしょうか。

私は各々の試合のハイライトをこの文章を書いている途中で見返しましたが、画面からもスタジアムの熱量が肌で感じるように伝わって来ました。正にスタジアムに集った全員が闘い、勝ち獲った最高の結果であると感じました。

これらの試合における、ゴール裏だけでなく豊田スタジアムに居た全員による声と拍手と体現したその姿勢こそが、「勝利に繋がる応援」なのではないでしょうか。

そうした「応援」が、やはり名古屋グランパスが定義したゴール裏に集う「12番目の選手たち」へと求められるものではないか、と感じるところなのです。


ここ数日の「ゴール裏論争」のきっかけは幾つかあるのだと思いますが、その中の一つに、

ゴール裏へは覚悟がある人だけ来て。

のような言葉がありました。

このX特有の短い言い回しの解釈が多岐に渡ってしまったため、論争が巻き起こり、その論争が変容し、「ゴール裏は初めての人を排除するのか」「何回通えばいいのか」「俺は昔から応援している」「全ての試合に参戦することにこそ意味がある」のような行き過ぎた意見が出てきて、今回の「ゴール裏論争」が(も)、いつものような “不毛な議論” に成り下がってしまったように感じます。

※記すまでもなく、全試合へと応援に駆けつけている方々は尊敬に値すると思います。そして、ご自分の出来る限りの形でクラブを応援している方々も尊敬しています。それらに、クラブ愛の大小、優劣は無いはずです。

その中で、前述の通り、ゴール裏の「12番目の選手たち」に求められるのが「勝利」であるならば、

ゴール裏へは覚悟がある人だけ来て。

は、決して間違った主張ではないと私は考えます。「勝利」を掴むためには、ある種の「覚悟」が「選手」には求められる、と私は考えるからです。

しかし同時に、名古屋グランパスが掲げる「グランド パーパス(Grand Purpose)」「グランパス ファミリー ステートメント(Grampus Family Statement)」の中の、

Open mind for the Grampus Family

も、決して忘れてはならないのだと思います。

これから出会う未来のグランパスファミリーを受け入れ、多様な人々を巻き込み、より強く大きな上昇気流を生み出す。その上昇気流が目指す先は「Challenge for the Top」という世界への挑戦。

「名古屋グランパス公式サイト」の文章に筆者加筆。

名古屋グランパスを想う誰しもが手を取り合い、上昇気流を生み出すこと、それこそが 「勝利」へと繋がるのだと思うのです。


今年2月のJ1開幕戦「鹿島アントラーズ」戦において、倍井謙選手がプロデビューを果たしました。あの「0-3」というビハインドの中でピッチへと足を踏み入れた倍井選手は、試合後の「落ち着いていたように見えますが?」という質問に、下記のように答えました。

昨シーズンに試合を経験していた分、あがることはなかったです。でも、勝負であることに変わりはないので、今日も緊張感を持って試合に入りました。

『INSIDE GRAMPUS』
「明治安田J1リーグ第1節 鹿島戦後 選手コメント②」

これからゴール裏デビューを考えている方は、倍井選手のような「昨シーズンの試合経験」は無くとも、「緊張感を持って試合に入る」ことはできるのではないでしょうか。

クラブは「チャント集」や「チャントの音声」を提供してくれていますし、YouTubeなど各SNSでも容易に試合におけるゴール裏の様子を確認することができます。

そういったもので準備をすれば、倍井選手のように試合に入りやすくなるのではないでしょうか。もちろん、分からないことがある場合はX等で呼びかけてくれれば、みんなが教えてくれますよ!

そして先輩である「12番目の選手たち」は、開幕戦で倍井選手をコールで出迎えたように、ゴール裏への新人選手をピッチ上(ゴール裏)へと温かく迎え入れることで、倍井選手が魅せてくれたような躍動感溢れるプレーを引き出し、その選手を新しい戦力へと昇華させることができるのではないでしょうか。

新しい職場や新しい学級クラスに入っていく時、多くの方がその受け入れ先のことを下調べすると思います。そして、そのコミュニティに加わった時に、新人だからといって傍若無人な振る舞いは控えるのではないかと思います。

また、新入社員が初めてオフィスに入ってくる時、転校生が初めて教室に入ってくる時、皆さんはどのような応対をされていましたか?されますか?

そういったことを思い浮かべれば、自ずと各々が取った方が良いと思える言動が見えてくるような気がします。

名古屋グランパスのホームスタジアムにおいては、誰だって最初は “新人選手”。その新しいチカラこそが、未来の名古屋グランパスの歴史を紡ぐのだと思います。


もう一つ、難題を失礼します。

「ゴール裏論争」において、“声を出してない”、 “飛んでない” 、“スマホを操作している” ファン・サポーターへ、厳しい言葉で咎める様子を見聞きすることがあります。

そういった応援とは一見相反するような行動は、物理的要因(ケガをしているなどの身体的な理由など) によって出来ないのかもしれませんし、スマホ操作に関しては緊急の連絡が入ってしまったのかもしれません。(9月の井上尚弥選手のボクシング世界戦の配信でも、緊急の仕事でスマホ操作をしていた方が画面に映り、Xにおいてバッシングされるという事象がありました。)

そのようなシチュエーションにおいて最もあってはならないのは、「声出せよ」「飛べよ」「スマホいじるな」と、誰しもが不快に感じる言葉で声をかけることだと私は考えます。例え「正論」でも、伝え方を失敗してしまえば「感情論」にも「暴論」にもなり得てしまうのです。ゴール裏に集う仲間同士、しかし関係性を構築できているわけでは決して無いわけなので、そのような初対面に近い人へは、それなりの伝え方があるのではないでしょうか。

相手に思いやりを持って声をかけることによって、前述のようなのっぴきならない理由があることに気付けるかもしれませんし、相手が想いに応えてくれるかもしれません。

私は先日のルヴァンカップ準決勝第2戦「横浜F・マリノス」戦において、後方まで旗を振ってしまい後ろに立っている人に柄がぶつかりそうになっていた方へ、「後ろの人に当たりそうなので、前方へと振っていただけますか?」と伝えたところ快諾してくださり、以降は後方に気をつけて旗を振ってくれました。

もちろん、この世知辛い世の中において、見ず知らずの人へ注意やお願いをするのは難度の高い行いであるとを私自身も常日頃から感じています。私の事例は、お伝えした方が嫌々聞き入れてくれたに過ぎないかもしれませんし、ただただ穏やかな方で私がラッキーだっただけかもしれません。

それでも私は、同じ想いを持つ者が集うゴール裏においては、然るべきコミュニケーションを取れば、お互いがそれなりの着地点に収まることができるのではないかと、どうしても考えてしまいます。楽観主義と言われようとも。能天気と揶揄されようとも。

ただ、この「声をかけることによって状況改善を図る」については、別の文章を立ち上げる必要があるほどの難題で、「自らの熱量を伝播させよ!」のような代替策を考え出すことの必要性も出てくるのかなと思います。サポーター一年目の私には手に余る議題と感じるので、この文章においては此処までとさせていただきたく思います。


また、3月に書いた拙文「【初めてのゴール裏】2024.3.30 名古屋グランパス vs 横浜F・マリノス」において、「ゴール裏とはこうあるべきという “べき論” を推し進めることにならないか」「ゴール裏を聖域化し過ぎではないか」というご意見を頂きました。

今回の文章を書いている中で、改めて“べき論”を進めたいという思いは決して持ち合わせていないことを表明したいのですが、私の論考において “ゴール裏の聖域化” については否定できないのではないかということに、はたと気付きました。

「12番目の選手たち」にとってのピッチ、つまりは「ゴール裏」というものは、ある意味 “聖域” であると私は深層心理で考えている節がどうやらあるようです。それは3月のnoteでも書きましたが、8シーズンに渡り、ピッチからゴール裏を全身で感じ、ある種の畏怖の念を抱き続けていたことが影響しているように思います。

“聖域”という表現は、そのような個人的な体験からなる一つの極論に過ぎないものであり、こちらに関しても別の文章を立ち上げる必要があるほどのものであるかと思いますので、この文章では結論には至らなかったものとしての宿題とさせていただければと思います。


今回起きている「ゴール裏論争」を、クラブによる「ゴール裏」の定義と、クラブが掲げる「グランド パーパス(Grand Purpose)」と「グランパス ファミリー ステートメント(Gampus Family Statement)」の二点を軸に据えることによって、その収拾がつきづらくなっている状況に風穴を開けられたら、と思い書いたのが今回の文章です。

記すまでもないですが、私の手による一つの考えに過ぎませんので、お読みくださった方々の「ゴール裏」像へ思いを馳せるきっかけになるのでしたら、それに勝る喜びはございません。

これからも、名古屋グランパスのゴール裏、ひいてはホームスタジアムが「世界一」でありますように。(異論は認めません。「私のパートナーが誰よりも世界一♡」と誰しもが一度は持つ感情と同義で捉えてください…)

長々とした一人語りにお付き合いくださり、ありがとうございました。残り6試合、全勝しましょう!

※ヘッダー画像: 名古屋グランパス公式サイト

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