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答え合わせ

去年まではクラブスタッフとして、今年はサポーターとして、名古屋グランパスの力になれればと日々生活してきました。

双方の立場を経験させていただいた身として、その間のギャップにフォーカスし代弁しながら、今年発信してみてはどうか、と年初に考えました。

そのようにして、サポーターとクラブの考え方の間にどうしても横たわる溝について少しでも上手くブリッジして、あわよくばシーズン終わりにはマージできればなんて考えていました。しかし、一年経ってみて、私の至らなさを感じるだけの結果となりました。

クラブスタッフ経験者としての鮮度が落ちないうちはチームが開幕ダッシュに失敗してしまい、そういった外的環境が整わない全体的にアゲインストな状況において、昨年までの思考回路から抜け切らないままの、サポーターの皆さんとは逆張りとなるような意見を提示してしまい、それ以降は鮮度が落ちるにつれてピッチ外で目立ってしまった話題にしか言及できず(123)、当初描いていたポジティブな世界形成に繋がるような発信ができませんでした。

そして、サポーターになってみて見聞きし感じることは、どうしても昨年までのクラブスタッフの立場の幻影から逃れられず、「サポーターとクラブの中庸でありたい」という願いに関しても、とうとう叶えられるまま一年が終わろうとしています。

そのようになんとか中庸であろうとしながらも、ある人からは既得権益にいた人間と捉えられ、更には未だにクラブと通じているのではと邪推されるなどし、終ぞ過去の残像から私自身は解放されなかったのでした。

想いは同じはずなのに、そのことを言葉に込めているはずなのに、「あいつが何かまた言っている」という視線(視線はデジタル上でも届くのです)が、日々のストレスとして蓄積されてきました。

昨年まで感じていたストレスからは解放されたように思いますが、新たなストレスを抱えることになるとは、なかなか想像できておりませんでした。

匿名なら有り難がられて、私を嫌ったり、「グランパス」を斜めに見るような立場の皆さんも、耳を傾けてくれたのではなかっただろうかと思うこともありました。しかし、それでは説得力が著しく落ちますし、場合によっては自分が体験したわけでないエピソードも幾らでも自らのものとして書けてしまいます。それへのリアクションに気持ちよくなりその陶酔感から抜けられなくなり気付けば、一線を超え、職業倫理観やモラルを忘れてしまうような言動をしてしまっていたかもしれません。

「中庸であろう」とした願いは果たせぬまま、中途半端な立場で在り続けてしまった、そんな反省しかない一年間でした。


そうした一年を過ごす中で、伝わりやすい言葉より正しさや厳密性を優先してしまいがちの私が、このSNS時代には決して求められていないことは常々感じていました。また、「(過去にいろいろな事象があったクラブにいた)お前が言うな」と言われれば、お手上げするしかありませんでした。

そして、言葉にして発信し続けるには生み出す力だけでなく、それに対するリアクションを受け止めるパワーも要るもので、正直その活力も漸減しつつあり、また来季以降も同じようなことを言い続けても鮮度は落ち飽きられて、老害認定される未来しか待っていないのではないかと、思い至るようになりました。

この一年において、名古屋グランパスを取り巻く風潮や言説に何か良い影響を与えることはできませんでしたが、最後に残すこの言いたいことを詰め込んだ文章が、グランパス界隈へと後ろ脚で砂をけるようなものではなく、より良いコミュニティへの雨垂れの一滴になってくれることを願います。

よろしければ最後まで、お付き合いくださいますと嬉しく思います。

第一章 Jリーグを取り巻く諸問題

この章では、この一年見過ごすことはできないと感じた、Jリーグ界隈に蔓延るいくつかの問題について、私の見解を述べさせていただきます。

①煽り煽られ問題

クラブスタッフ時代、迷惑と感じていたアカウントがたくさんありました。

昨年末にクラブを辞めてから、そのうち幾つかのアカウントにコンタクトを試みました。

最初は穏便に、そして気の置けない中になれば…なんて…。ただ、その多くは、私が望む結果となりませんでした。関係性を築けないままのコミュニケーションが成就するわけはなく、私の一方的な意見表明に終わっているのが殆どです。

そういったアカウントと私との関係は最早どうでもいいこと。よくあるサポーター同士の仲違いに過ぎません。

しかし、そのアカウントが過去に行った行為を、相手サポーターは決して忘れてはいない。そして、そのアカウントは今も反省をしていないでしょうし、私の伝えたい意図も理解していないでしょう(コミュニケーションの不成立は双方に責任がありますので、私の力不足を認識しています)。何が悪いかを省みないまま、そしてその周囲のフォロワーの方々も注意することは決してない。残念ではありますが、その行為を讃えるアカウントさえ、周囲に群がっているような有り様。

私が更にやるせなさを感じるのが、そういったアカウントが普段の日常に関する生活や家族や仕事の話を同時に発信していることです。

・家族が…
・今週は業務が立て込んでいる…
・朝が辛いな…

そういった人生の酸いも甘いも日常的に経験し、自分の喜怒哀楽は受け入れられる感受性は持ち合わせているのに、殊にサッカーのことになると、相手クラブサポーターや自クラブ、そしてピッチで闘う選手は何処か自分たちと住む世界は違うとでも思っているのでしょうか、普段の生活で絶対にしないであろう言動を繰り返してしまう…。

・試合ではサポーター
⇒ 何を言ってもいいでしょ。

・スタジアムではお客さま
⇒ お金を落としてるよ。

・試合以外はファミリー
⇒ 家族なんだから守ってよ。

・SNS上では自分が絶対
⇒ Jリーグや他クラブといったコミュニティの構成員という自覚は皆無。

こういった方が、社会においては立派に一人の市民として、毎日生活されているのです。

なので、前述の通り直接的な接触を試みました。
コンタクトを約束することのできたアカウントは、お会いできたその瞬間、タイムラインで暴れ回る匿名の「アカウント」から「顔の見える人」になりました。正直、私が目にしている「この人」のその姿を(決して、その人にありのままではないことは承知の上で)私のタイムラインに紹介してしまいたいと頭を過ったこともあります。そうすれば、過去に嫌な思いをしてしまった人たちに、「本当は良い人なんだよ」と理解いただけて、少しは溜飲を下げてもらえるのではないかと…。

現実的な手段でそういったしこりを取り除くには、開示請求してプラットフォームを通じてweb上の言動を改めてもらうか、弁護士を通じてそのアカウントを衆目にのもとに晒すしかないように思います。そのアカウントが反省せず、今後同じような言動をするのであれば。

今年からクラブスタッフからサポーターになって感じることに、ギャップを感じる瞬間もあれば、同じ想いを持っているんだと気付くことのできる瞬間もあります。後者のうちの一つが、どちらもクラブを想う気持ちの多寡に違いは無いということです。

なので、愛するクラブを応援する以上、サポーターを名乗る以上は、一人ひとりがエンブレムを身に着けていることを意識しなければならないと思います。これはクラブスタッフ時代、アカデミー選手たちへSNS研修を行う際に最初に伝えたことでした。グランパスのウェアを着て公共交通機関を利用する時と同じように、そのweb上でもエンブレムに恥じない言動を意識してほしい、と。

これはクラブ関係者だけでなく、私たちファン・サポーターであっても同様のことではないでしょうか。SNSのアカウントのアイコンにクラブプロパティを利用するのであれば、サポーターと自己紹介文に記載しているのであれば、日々の発信でクラブについて語っているのであれば、他者から見ればあなたはそのクラブの一員です。そういった意味でのファミリーであり、インフルエンサーであり、広告塔であり、クラブにおける広報や営業部の一員とでさえあると思うのです。上述のアカデミー選手たちと同様に、どうしたらクラブへ貢献できるのか、どういった言動が不利益に繋がるか、頭と心に留める必要がファン・サポーターにもある、とは言い過ぎでしょうか。


SNS上の言葉は誰もが見れることを、今一度認識するべきです。

SNS上での言葉は、例え「独り言」でも、その対象者へ届く可能性がある。加えて、昨今のSNSプラットフォームは、届きやすいようにアルゴリズムが機能している。そして、このコミュニケーションは「誰もが見れる」が故に、一対一にはなり得ない。そのようにして「論争」が始まり、ファシリテーターが存在しないからこそ決して「議論」にはなり得ず、お互いしこりが残り、待っているのは未来での修復の機会はほぼ望めない分断という結果のみです。

この事態を避けるには、そして誰かを傷つける可能性のある「独り言」が対象者へ届く可能性がある以上、「独り言」の形式ではなく「意見」へと昇華する必要があります。ここで初めて、議論が成り立つ舞台が出来上がる。

しかし昨今の言説は、ただ「論争」を仕掛ける目的だけの、自らの怒りなどに衝動を「独り言」の形式でポストすることで、対象者を非難し賛同者を煽動することを目的だけのようなものが殆どです。

そして質の悪いことに、

・普段は仲間内というフィルターバブルの中で、それぞれが見えている世界が全て。

・その認識で、相手クラブを煽るような独り言をSNSで吐く。

・その独り言が相手のフィルターバブルにも伝わり、大事になって初めて自分のテリトリー外からの反応に触れ慄く。もしくは、仲間と共にフィルターバブルへと舞い戻る。

・他のサポーターたちは、焼け野原となるまで、その燃え盛るSNS空間に取り残される…。

のようなことが日々起こっています。

深層心理で相手に届くことを願いっている公開の悪口の顛末の多くが、このような有様なのです。もしくは、相手に見つかった以降、傷付けた相手へと決して謝らずに、自己正当化に努め、更に事態を悪化させるか。いずれにせよ、その過程において愛するクラブにとって1ミリも有益にならないところか、逆効果で非常に迷惑を受けていることに気付かない。気付こうともしない。そういった人間が、この同じ空間において、そしてその手で、前述のような「家族に感謝」と言葉を紡ぐのです。


これは、SNS上だけには限りません。もちろん、リアルの場でも同様です。

リアルの場では、お互いのフィジカルなコミュニケーションとなるので、ある程度の抑止の力が働きます。しかし、スタジアムにおいては目を背けたくなる見るのも耐えられない光景が繰り広げられてきてしまった歴史があることは、ここで改めて記す必要はないかと思います。

ここで、この項の結論を。

“ 煽り煽られは、勝利への足枷でしかない。
試合の中だけにしませんか ”

スタジアムに着席してから(ないしは自席にたどり着いてから)、選手たちがピッチインしてから勝利へ向けて戦闘モードにスイッチオンするのと同じように応援を始め、ただし試合が終わったら、同じく選手と同様に一旦はスイッチオフ。

ピッチにいる選手たちは、たとえ試合中のいざこざがあっても、笛が鳴ればラグビーで言うノーサイドの精神です。つまりは、ピッチ内のいざこざは、ピッチ外には持ち帰るようなことは決してしません。であるならば、サポーターも同様に、どんなに悔しいことがあっても、理不尽なことがあっても、許せないことがあっても、試合終了の笛が鳴ったらその結果のすべてを受け入れる。それが、サッカーというものを愛してしまった人間の宿命なのではないでしょうか。

※追記
試合前の煽り煽られは、街中でのストリーファイト、もとい酔っ払い同士の喧嘩の如く、当人同士以外の外野からするとストレスでしかありません。何故クラブの虎の威を借りて、選手たちの、勝利への邪魔をされるのでしょうか。クラブへどれだけ迷惑がかかっているのか、一度思いを馳せてみてください。サッカーにおける「煽り煽られ」はプロレスでは決してない。それはコンテクストに則って行われるプロレスへの冒涜でしかない。


サポーターは「好きで応援しているだけ」という言説を良く目にします。しかし、あくまでJリーグという公共財を共にするコミュニティ構成員の一員であることを思い出すべきではないでしょうか

自分の意思でサッカーボールを蹴る時は、自由にプレーできると思います。ただ、パス練習したいのであれば、相手が受けやすいパスをするようにするはずです。試合においては…言うまでもないのではないと思います。

応援も然り。家やパーソナルスペースで応援する分には、何を言っても良いのだと思います。道徳上の観念は傍に置き。しかし、応援の場所が自分だけではない場合、その限りではありません。

Jリーグって、試合内容や応援で煽り合う健全な文化が根付いてたはずで。
それが近年試合以外、特に相手サポーターを馬鹿にしてやろうって風潮が急速に拡大して最悪の状況になってる。

あるクラブのサポーターの方のXの投稿

重ね重ねSNS上で煽り煽られるアカウントは、言うだけ言って雲隠れし、ほとぼりが冷めれば同じくことを繰り返すといった、自分だけが公共空間とプライベート空間とを行ったり来たりする傾向にあります。窓を開けて言って、言った後は窓を閉める、というような。

でしたら、ご自分の部屋の中で言えばいいのではないですか?仲間との宴の場で言い合えばいいのではないですか?公共の場であるSNSへと解き放つ必要はないのではないですか?


ファン・サポーターである私たちのポストは、私たちが想像する以上に多くの方々に見られる可能性を秘めている。

だからこそ、責任が伴う。

結果的に、リアクション通知に慄き、通知を閉じ見なければ良い、訳では決して無い。その言葉は、相手へと、周囲へと、確実に届き、そして傷付けている。

そう言った意味で、私たちは当事者である。クラブと一心同体だ。

しかしまた、当事者ではない。なぜなら、簡単に責任を投げ放つことができるから。謝らないこともできるし、リカバリーをする気配を表すことも、しないようにすればできる。自己弁護も、責任転嫁も、現実逃避もお手のものだ。

しかし、選手やクラブスタッフ、Jリーグに関わる人たちはそうではない。その燃え盛るデジタル空間やスタジアムの中で、必死に闘うしかないのです。

とここまで書いていて、私のこの文章こそデジタル空間における「煽り」なのかもしれないことに気付きました。いよいよ私も、SNSを離れるべきなのかもしれません。そのことは、また後述にて。

②「集中!」「勝つ気あるのか!」ヤジ問題

最初から結論を。

タイトルにあるような言葉は、選手へ絶対に伝わりません。発話者本人の自己発散以上でも以下でも、何ものでもありません。ただただ、選手と周囲のモチベーションを下げ、むしろ逆効果であり、あなたの声がない方が、勝利の確率は確実に上がる。故に、あなたの声のスタジアムにおける存在価値は、ゼロに等しい。

もし、選手やチームが不甲斐ないと感じるプレーをしてしまった時に、私たちができることは何か。それは、そのプレーを選択したその意図に、拍手をや声援を送ることではないでしょうか。

8月のアウェイ京都戦での、内田宅哉選手の退場に繋がったプレーに関して。あの時、必要以上の非難があったことは否めない事実です。

「ゾーンに入る」という話を、アスリートはよく口にします。試合中、何も聞こえず、何も考えずに、自らの思考や全神経が自然発生的に最適解のプレーを選択してくれると。逆にその際に少しでも邪念や雑念が生まれたら、一瞬のプレー選択の判断にゾーンとは程遠い迷いが生まれかねないということ。私たちがそのような雑念を生み出してしまう可能性のある言動をしてしまっては、私たちのサポーターとしての存在価値は何処にあるのでしょうか。私たちができることは、そのような自己発散ではなく、選手がストレスを感じることなく、最適なプレーを連続して行うことができる環境や雰囲気を作ることではないでしょうか?

良いプレーには拍手を。そして失敗してしまっても、その意図を汲み取り次のプレーを促す。ヤジやため息は1ミリも選手の力にはなり得ないと思います。


とあるクラブのスタッフの方の言葉。

他クラブがどうかわからないけど、〇〇(席種)のヤジはかなり酷い。昔、試合後に子どもたちが選手と写真撮るイベントがあって、それに対してもヤジ飛ばしてる人がいて、子どもたちが怖がってた。身体的な暴力と違って、言葉の暴力は運営も対処が難しい。

そういったヤジをする人は、そういうカルチャーで育ってるのだと思う。人は厳しくして育つものだと本気で思っているので、叱咤激励のつもりだと思っている。普段はまともな人でも、スポーツの応援になるとヤジを飛ばしてしまう人は多い。

あるサッカークラブスタッフの方の言葉
※文中、適宜改変させていただいています。

こういったヤジに関して、一つの興味深いエビデンスをこの秋に見つけました。

ファジアーノ岡山のサポーターの方による、Jリーグの木村正明理事の講演の内容のレポートで知った観戦調査の結果からの抜粋です。

重ね重ね、そうしたスタジアムや、SNS普及により汚い言葉や誹謗中傷が増長・増幅、拡大再生産されるweb空間で、私たちサポーターができることは何でしょうか…。それはヤジを飛ばさないことと、ヤジを飛ばせないような雰囲気を作ることであると思います。

ネガティブはポジティブを凌駕する。

私は本気でそう考えているので、来シーズン以降も選手やクラブの力に1ミリでもなるような、後押しを続けていきたいと思っています。

③ブーイング問題

不甲斐ない試合後のブーイングを、私もクラブスタッフ時代に何度もピッチレベルで浴びました。

そのブーイングの対象は選手たちであるのだと思いますが、クラブスタッフもその責任の一端があると思っていましたので、自分事として受け止めていました。

しかし、試合が終わってもスタジアムでのブーイングの声はなかなか私の耳から離れてくれず、その残響と共に試合後の残務処理を行い、また次の試合へ向けた翌日からの業務中においても、前の試合のゴール裏の光景やブーイングの音が、脳裏や耳をよぎってしまうことがよくありました。

コロナ禍以降の選手とサポーターとの接点は、スタジアムかイベントに限られているのが実情です。ただし、その貴重な機会であるスタジアムにおいて、心が通っていると信じていたサポーターから鬼のような形相で罵られたら…。その瞼に焼き付いた顔と、耳にこびり付いた怒号と共に、次の試合へとトレーニングへ励むしかないのです。

その中で当時、一つやるせなさを感じていたことがあります。サポーターの皆さんは、ブーイングで試合を終えられるという「カタルシス」がありますが、選手やクラブスタッフにとってのその試合における切り替えは各自に委ねられ、各々が自己処理するしかないのです。

今年からサポーターになってみて、ブーイングをするサポーター側も辛いのだ、ということを感じることができました。心を鬼にして選手たちへブーイングするという辛さを持って、一区切りにしているのだと。

しかし、ここで一つ感じていただきたいのです。試合後のブーイングは、選手やクラブにとっての切替のスイッチに、果たしてなっているのだろうかと。ブーイングをしたまま、喧嘩別れのような状態で、サポーターと選手が次の試合までの一週間(ないしは数日間)をお互い過ごす必要は、果たしてあるのだろうかと。そして、サポーターとしては「叱咤激励」としてブーイングをしていても、選手やクラブへは「叱咤」しか伝わっていないのではないかと。

そこで、私の取るに足らない提案です。選手たちへのブーイングを、その選手たちが立ち去ろうと背を向けたタイミングでフェードアウトするのではなく、選手と向き合っている間に行い切ってしまい、そのブーイングの中にある “メッセージ” を伝え終えた後は、お互いの「心の握手」をする時間を設ける、というのはいかがでしょうか。

その時間は静かなまま選手たちへ正対してもいいですし、拍手で補完してもいいかもしれません。その時間によって、ブーイングという「叱咤」だけでなく、心の握手による「激励」も、選手たちへ伝えるのです。そうすれば、次の試合までの期間を、仲違いしたままお互いがやるせなさを抱え続けて過ごすことなく、その期間がクールダウンとして機能し、選手たちと私たちをヒーリングしてくれるのではないでしょうか。そしてまた、次の試合への活力が、お互いの身体から沸き起こってくるのではないでしょうか。


今年からサポーターになり、これまでSNS上でしかその言葉を眺めることしかなかったアカウント主とやり取りをさせていただき、本当に心が穏やかになりました。それは恐らく、顔の見えるコミュニケーションの有難さによるものであると感じています。

しかし、選手やクラブスタッフの多くは、“顔の見えない” 私たちファン・サポーターのことを日々想像しながら、勝利へと自らを鼓舞するしかないのです。

そのようにして一週間トレーニングし、業務をしてきて、その成果を披露したスタジアムでブーイングをされたら…。

そのようにして、不甲斐ないプレーをしてしまえば、スタジアムというリアルの場では怒号が鳴り響き、たまに見るSNSへと立ち入って見てしまっても、そこに待っているのは悍ましき地獄の世界…。よほどSNSをゾーニングして正しい情報にアクセスできるリテラシーに長けた選手以外は、サポーターの声は届かないものだったりします。クラブスタッフも、広報担当でない限り、SNS上の声はかなりスクリーニングしているはずです。そうでなければ、心を決して保てないからです。

だからこそ、スタジアムでの声援が重要であり、SNS上でのポジティブな言葉が求められているのです。

この文章が、自己発散としてのブーイングやSNS上でのプレー評の発信といった “何気ない” 行動の一つが、選手やクラブスタッフにどう届いているか、思いを馳せるきっかけになりましたら、それに勝る喜びはございません。


P.S.
関連してジャッジメントへのブーイングについて。

・レフェリーは人間です。
・レフェリーにブーイングして、これまで何か物事が良い方向へと前進したことはありますか?

ジャッジは一度下されれば、VAR以外覆うことはありません。故にジャッジへ関するリアクションは、レフェリーへの心象を汚す以外に、そしてスタジアムのテンションを下げ雰囲気を悪化させる以外に、全くもって意味がないことであると思います。

試合前、両クラブの運営担当者は、レフェリーと密にコミュニケーションを図ります。最高の試合を創り上げるために。しかし今シーズン、レフェリーがピッチに登場しただけでブーイングが発生するところを何度か見聞きしてしまいました。そういったブーイングは、試合主催者の想いを踏みにじる行為でもあるのです。

ですので私たちにできることは、レフェリーのジャッジメントを受け入れて(時にはぐっと堪えて…)、次のプレーへと向かう選手たちの背中を、声と拍手で送りだすことだけ、なのではないでしょうか。

④晒し吊し上げ問題

昨今のスタジアムにおける悪行や愚行をSNSへと晒す行為について、ここで具体的な事象を列挙する必要性はないかと思います。

今年になって特に、「応援してるチーム以外は貶めても構わない」のような姿勢を目にすることが多く、クラブスタッフ時代と同じくらいの心労を感じてしまう時が何度かありました。

そういった悪行や愚行を苦言を呈したいのであれば、その行為そのものものを咎めるべきで、その行為者の所属するコミュニティ(クラブ)にへと悪魔化し拡大解釈することなく、たんたんと試合主催者など然るべき機関へ報告すれば良いのだと思います。

決して、その悪行や愚行を目にして憤りを感じたり、正義感が発動することを否定したり、咎めているのではありません。その悪行や愚行を衆目に晒す必要性があるのかを問うているのです。

悪行を目にしたり発見した際の、その様子の画像や動画をSNSへ投稿する必要性を、私は全く感じません。

クラブスタッフ時代、試合後の座席に残ったゴミなどを撮影し、「ルールを守って欲しい」というような投稿を目にするたびに、直にクラブへ報告していただきたい、と何度も感じていました。そうすれば対処法はいくらでもあるのです。

しかし、そういった愚行や蛮行の画像や動画がSNSという場に一度でも放たれてしまうと、そもそもその行為者にメッセージが届くとは限りませんし、届かない場合はクラブにとってのマイナスプロモーションにしかなり得ません。

そして、そういった画像や動画はプラットフォームが運営される限りデジタルタトゥーとして残り続け、場合によっては転載され、新たな火種としてデジタル上で燻り続けるのです。更には、凡そサッカーメディアとも呼べない、舌舐めずりをしてネタを待っているだけの、とあるメディアにとっての格好の養分にもなりかねないのです。

なお、「啓蒙の意味合いもあるのだ」という考えのもとポストしているんだ、という方もいらっしゃるかもしれません。しかし、スタジアム観戦に関することは、試合運営者に任せるのが最善であると私は考えます。

ルールを守らない行為が起きてしまった場合は、然るべき機関が事態へと迅速に関与することが、その解決への最短の最善策であります。また、そのようにして試合運営者であるホームクラブへ通報し、その対応を委ねてしまうことは、「餅は餅屋」の発想で、発見した瞬間に湧き上がる衝動をクールダウンさせることができ、精神衛生にも落ち着きをもたらしてくれるのではないでしょか。

悪行を目にして衝動を感じてしまった場合には、その衝動はSNS上へと放つべきではないと考えます。

確かに、そのような晒すポストをすると、自らの溜飲を下げられますし、一時の仲間内コミュニティからの承認を得られ、そうやって衝動を抑えようとする人もいるのかもしれません。しかし、「悪行は悪行」であるが故に、その行為の是非を世の中へと解き放ち、SNS上で議論する必要性が無いのは明らかです。

そのような自明の悪行や悪事を、衝動のままに自ら応援するクラブサポーターを名乗りながらSNSという衆目へと解き放つことは、周り回って愛しているはずのサッカークラブやサッカーコミュニティにとって有害にもなり得る発信になってしまう可能性があることは、前述の通りです。

加えて、晒すポストをし、その行為単体ではなく、その行為者の所属するコミュニティや応援するクラブへと主語を拡大してしまった場合、将来的に似た行為が身内から発生してしまった際に、その行為者を「一部の〜」と切り離すことに説得力が無くなってしまいます。そのようなクラブのブランドにとって取り返しのつかない事態になってしまう可能性もあります。

深淵をのぞく時、
その深淵もこちらをのぞいているのだ。

フリードリヒ・ニーチェ

重ねて、“悪行をSNSへ投稿する行為” には投稿者自身の自己満足以外に必要性は感じられず、全体的には非有用性しかないと思うのです。悪行や愚行を目にしてしまった際は、我先とその行為者を非難し、或いは事象に対し意見表明して火に燃料を加担するのではなく、たんたんと然るべき機関へ報告し、より良いコミュニティの形成へと繋げていくのが大事なのではないでしょうか。そういった際の脊髄反射しがちな時の対応については、後述させていただければと思います。

⑤リスペクト冷笑問題

リスペクトを軽視したり、「リスペクト厨」と揶揄する人に対して、語ることは多くはありません。できることも殆どないと、この一年で気付きました。

以下が全てだと思いますので、ぜひ一度お目を通していただきたいと思います。

リスペクト宣言|日本サッカー協会
RESPECT & FAIR PLAY|名古屋グランパス、名古屋グランパス選手一同

サッカーは相手が在ってこそ成り立つスポーツ。


第二章 Jリーグ界隈で穏やかに過ごす方法。もしくは積極的に加担する方法

この章では、前章のようなJリーグ界隈の現状において、どのように穏やかに過ごせば良いのか、あるいはより良いコミュニティ形成のために私たちに何ができるのか、思うままに書かせていただければと思います。

提案①:非「脊髄反射」のすすめ

特に試合後、XなどのSNSにおいて頭に来るポストを目にしてしまった場合、脊髄反射せずに、一度は投稿主のアカウントを訪れると良いと思います。

投稿主の過去のポストの内容やそれに対するリアクションの有無を確認することで、当該ポストをより冷静に眺められます。

過去ポストを確認してから、当該ポストへのリアクションをするか否かを判断しても、決して遅くはないのではないでしょうか。脊髄反射してしまう方の多くが、自らの怒りを発散 or 解消させたいがためにそれほど思考することなくリアクションしてしまい、Xにおける新たな憎悪や分断を生み出してしまっているように感じてしまいます。

先ず、投稿主のアカウントを訪れるというステップを踏むと、捨てアカウントやなりすましアカウントの策略に引っ掛からずに済む、という利点があります。

次に、過去ポストを読むと、その眺める時間と共に冷静になれる機会が生まれ、瞬間的に頭に来てしまうような当該ポストが、投稿主によるただ相手側を蔑める or けしかける意図が込められているものだったり、投稿主自身が溜飲を下げたいために仲間内へポストしているものだと気付けることが多いように思います。また、そういったアカウントに訪れると往々にして、叩ける対象を常に探しているインプレッション稼ぎ目的のアカウントだったりします。そういった煽動的なポストで先導し、勝敗等で鬱屈したアカウントがそれに群がるという構図の一員に、この文章を読んでくださっている方はなって欲しくないのです。

そして往々にして、一瞬「頭に来てしまう」ポストの中には、キラリと光るメッセージが込められたものも在ったりするものです。脊髄反射してしまうと、そういった新たな洞察に気付く機会をみすみす逃してしまうことにも繋がりかねません。

重ね重ね、この狭い「対戦型」世界において頭に来るようなポストを目にしてしまった時は、衝動的な破壊行為をもグッと堪え、そのアカウントへ訪れましょう。一度その投稿主のアカウントを訪れて過去ポストを眺めることで、冷静な時間を生み出すことこそが重要であると思います。そのステップを踏めると多くの場合、未来の貴重な時間と無駄なエネルギーの浪費をせずに済むのです。

それでも鬱屈とした感情を切り捨てることができないのであれば、冷静な振り返りと言葉を発せられないのであれば、リアルの場での独り言で解消しませんか。声に出してみると、思いの外冷静になれたりするものです。しかし、決してSNSへとそれを吐き出してはなりません。あなたと同じような憎悪をまとった顔の知らない仲間や敵が一瞬にして召喚されてしまうのが、SNSという世界なのです。

提案②:非「悪魔化」のすすめ

特に負けた後、相手クラブのサポーターの言動が目についてしまい、つい「〇〇サポがこんなことを言っている!」と憤ってしまうことがあるかと思います。

しかし、そのアカウントは確かに「〇〇サポ」の一員であるかもしれませんが、ただの一人の人間です。そのような人間を敵のクラブを応援しているからといって、敵対派閥として悪魔化するのはもう止めませんか。

そして、そういった人間は、前述のとおりアカウントへ訪れてみると「相手にする時間が勿体ないな」と思えたりするものです。

「事実と解釈を切り分けて、悪行を否定しても人格を否定しない」を意識し意見を発信すると、より良いコミュニティ形成へと貢献できるような気がしています。

提案③:非「自虐」のすすめ

客観的に素晴らしい能力や人間関係、誰もが羨む生活に恵まれていても、ストレスを感じたり、不幸せに思ったりする人がいることを、2015年に名古屋へ越してきて何度も感じました。

名古屋へ来てから生活し、色んな人と話してみても、仕事でアンケートを取ってみても、「名古屋は〜」の次にポジティブな言葉がなかなか続かず、本当にびっくりしました。あなたたちどれだけ恵まれているか、分かっていないのですか?と、常に感じる10年間であったように思います。

そして、何故か定期的にこの世に現れる謎の「名古屋サゲ記事」に対しても、私のように怒りを表明せずに受け入れてしまう方が多いように感じていました。

同じことは「グランパス」にも当てはまっているように思います。

「わたしなんてどうせ」と考えてしまうのは、この地域のただの癖ではないかと私は睨んでいます。この自虐性は日々の言動で強化されてしまうので、限りなくSNSと相性が悪い。そういった方は、定期的なリズムでクラブにとっても1ミリに役に立たない言説を、本人は自室での呟き程度の感覚で公開的に悪口として撒き散らしているのです。少しでも心当たりのある方は、あなた自身が下記アカウントと同レベルに陥ってしまっていると、自己認識された方がよろしいかもしれません。

本当に大っ嫌い

そして自分が他人から言われて納得してしまうが故に、「言わせとけ」という人も多いのがグランパス界隈の特徴であると感じています。そしてそうした思考は、場合によっては前述の「煽り煽られ」への加担する一歩目にも成りかねないのです…。

かつてのニューヨークの「窓割れ理論」と同じく、「言わせておく」は害悪でしかありません。それは名古屋サゲ記事によるボディブローのようなネガティブ作用が、私たち愛知県民の心を侵食していることを思えば、お分かりいただけるのではないでしょうか。

1枚の割られた窓ガラスをそのままにしていると、さらに割られる窓ガラスが増え、いずれ街全体が荒廃してしまうという、アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング博士が提唱した理論。

かつて、犯罪多発都市ニューヨーク市で、1994年以降、当時のジュリアーニ市長が、この「割れ窓理論」を実践。割れ窓の修理や落書きなど軽微な犯罪の取締りを強化した結果、犯罪が大幅に減少したと言われています。

「割れ窓理論」実践運動|京都府

グランパスに関するポジティブな言説がデジタル空間に溢れることに、良いことはあれど、悪いことは一切ありません。もう自虐は止め、楽しいこと、嬉しいことを呟きませんか?

提案④:その他

だんだん疲れてきてしまい…。
以下、箇条書きで失礼させていただきます。

  1. 矢印は常に自分達へ。

  2. スタジアムでの各パートナー企業・団体の試供品は積極的に受け取る&アンケートに答える。

  3. 試合前の円陣が解ける時の「オー…オゥ!」はタイミングが難しいので、円陣後の拍手へと切り替える。もしくは、選手たちに協力してもらえるよう、オフシーズン中にクラブとコミュニケーションを図ってみる。

  4. 選手たちの意図したプレーには、限りない拍手を。

  5. 特に夏場にスタジアムで体調不良者が出てしまった際は、ピッチ方面へ声がけするより先ずは、周囲や後方に必ずいるスタッフへと知らせる。人命も試合の流れも双方大事。それでも周囲にスタッフが見つからなければ、そこで初めてピッチ方面へと声掛け。

  6. 試合後の記念撮影時にゲーフラを掲げられると後ろの人が写らない問題。ご本人はゲーフラを写真に写りこませたいのだろうけれど、後ろの人も記念撮影の写真に写りたいはずで…。どうすればいいのでしょうか…。

  7. ホーム試合でも楽しかったことや嬉しかったこと、良いことや褒めたいことをもっとSNSへ投稿しませんか?公式アカウントを運営していて、勝利試合を伝えるポストにはリアクションが少ないのに、負けた試合には雨後の筍の如く罵詈雑言や誹謗中傷のコメントがつくの、本当に嫌でした。

  8. 公式のポストや選手のインスタやDAZNの投稿を引用する。スクショやパクった動画で自己承認欲求を満たすのは止めましょう。クラブや選手、パートナー企業の権利侵害です。

  9. 「着弾」「爆心地」といった言葉をSNSでは使わない。

  10. 一方を褒める時に、他方を下げる必要は全くない。

  11. 移動中のファンサを選手たちへ求めない。SNSにもアップしない。toto にも影響しかねません…。

  12. もっと「#グラサポ〇〇遠征」を使いませんか?遠征先での皆さんの行動が、これからパートナーを検討している企業や未来のサポーターへと届き、より良いコミュニティ形成に繋がるはず。

  13. あのメディアとも言えない、競技名を媒体名に掲げているサイトを閲覧したり、リアクションしたりするのをもう止めませんか?かっこ悪いメディアが蔓延る世界は、この2024年で終わらせましょう。

  14. Jリーグは、誹謗中傷問題に本腰を入れて欲しいです。選手やスタッフを守って欲しいし、サポーターも助けて欲しい。

  15. Jリーグは、Jリーグ版の「プロスピ」を作るべき。試合のない日やオフシーズンでのファン・サポーターの繋ぎ止めになるはずだし、子どもたちへの浸透も図れるはず。

  16. ルヴァン決勝の舞台である国立競技場のコンコースのディスプレイに試合映像が流れていなかったので、スタグル買っている間は試合の流れを追えませんでした…。2025シーズン大会からは、ぜひとも改善して欲しいです。

最後の3つは、ただのJリーグへの要望となってしまいました…。

以上この一年間における私のメモ書きからの抜粋でした。より良い2025シーズンへ向けて、グラサポみんなで考えるきっかけになりましたら幸いです。


第三章:終わりに

去年までは仕事として、今年は少しでも自分ができることがあるのではないかと信じ、自主的に嫌なニュースや事象、デジタル空間における誹謗中傷にも目を通すようにしていました。しかし、去年までのような、仕事としての「分人」と弁えたとしても辛かったことは、サポーターとしての「本人」として行うと、見事によりダイレクトに私の心身を侵食してくれました。

加えて、一年かけてクラブスタッフとしての感情をクールダウンしてきましたが、正直まだ落ち着くことができていません。今シーズンも、試合前に冷や汗が出たことがありましたし、選手がミスするたびに心がギュッと苦しくなりましたし、試合後に眠れなくなった日も正直ありました。

「あー、誹謗中傷?デマ?気にしなければいいじゃん」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、仕事においてはそれは決して褒められない姿勢だと私は考えていまして、だからこそクラブスタッフを経験してきた立場からそのように眺めるだけでなく、サポーターとしての自分との間に一度この文章で書いてきた事象や対象者を置き、双方を感じ取れるような中庸であろうと願いましたが、そうできなかったことは、序章に記したとおりです。そのようにしないと全体を掴めないと考えていたのですが、このステップは想像以上にエネルギーを要する作業であり、何よりしんどいものでした。

本文は、そういった日々の中で私なりに気付いたことを展開させていただくことで、これまでの私自身にも区切りがつけられたらと願った文章でもあります。

正直、「元クラブスタッフ」と匿名で濁し、守秘義務違反や退職時に契った規約にしない範囲でサポーター心をくすぐるような投稿をすることで心理的な距離を縮め、それから正論を展開すれば、もっと良い活動ができたのかもしれないな、と思ったこともあるのは前述のとおりです。そうした方が、私が描いた未来が待っていたのかもしれません。ただ、できなかったのが事実ですので、最後のあがきのこの文章が、雨垂れの一滴になってくれることを願うのみです。

元マラソン選手の柏原竜二さんの言葉には頷くしかありませんし、来年以降も都度都度うるさ型でありたいなと思ったこともありました。そういった “抗い” を刻印していかないと、言ったもの勝ちの世界が、2025年以降も構築されていくことになってしまうかもしれないから。

でも、エネルギーが尽きました…。

そして、SNSだけでなくメディアも同様に、批評ではなく悪口合戦になってしまっているなというのがこの一年の印象です。結局は、取材対象者への想いだったり、業界や社会をより良くしていきたいという願いより、消費者の衝動の発散と解消へと迎合した報道や、取材者本人の自己承認欲求を満たす記事のようなものを優先させ、そういったものが多くを占め、多くの共感を得てしまう世界になりつつあります。ただ、そういったメディアを取り巻く状況も、戦後のメディアを形作ったあの巨星が逝ったこの2024年で、終結させるのが良いのではないでしょうか。もう、ネガティブな言説が蔓延するメディア環境はお腹いっぱいです。

だからこそ、webに傷付いた後にリアルへ回帰するとホッとするし、「あれは何だったんだ?」と思ってしまうくらい、そのweb上の異常性に気付いたりする。この一年で、webの功罪と中毒性を身に染みて感じました。

それでも、

上記のようなXの利点は最早私には欠かせないものになっていて、引き続きXの世界に身を置いていたいので、このnoteにまつわるポストを最後にして、今のアカウントを変えようかなと考えています。ですので、皆さんとまたどこかでお会いできたら、なんて勝手なことを思っています。

最後に、この一年で一番言いたかったことを。

あなたの言葉で、選手やスタッフやその家族がどれだけ悩んでいるか、泣いているか、想像したことがありますか?

SNSでの呟きは、対象者へ聞こえるように吐く独り言であると、私は認識しています。どうかあなたの言葉の先には、あなたと同じく生活している人間がいることを忘れないでください。そしてあなたの言葉次第では、その人間の命に関わる事態になってしまう可能性があることを忘れないでください。


一年間、好き勝手なことを言葉にし、文章にさせていただきました。それにより、傷付いてしまった方がいらっしゃいましたら、この場でお詫びをさせてください。申し訳ございませんでした。

そして仲良くしてくださった皆さん。皆さんと過ごした一年間は、これまでの人生において、最良の時間となりました。感謝しかありません。

本当に本当に、幸せな一年間でした。ありがとうございました。

2025年も名古屋グランパスにかかわる全員で、輝く星を掴みましょう☆

“サッカーで笑顔と勇気を”

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