#23 手のひらのあと -矢口れんとさんとの対話-
昨夜は詩人で、インド学研究をされている矢口れんとさんとお話をした。
れんとさんとの出会いは、具体的には覚えてないのだが、フォローしていただいたのをきっかけに、noteやTwitterで活動されていることを知ったのがはじまりだった。
昨夜のお話では、ぼくが詩作教室に通ったときの記事を読んで、フォローしてくださったとのことで、それこそ一年半以上前の話だということがわかった。
その後、ぼくの「詩は、ファッションである。」の記事をチラシにしたものを文学フリマで手にとってくださったり、それこそ前回の文学フリマで出した『壁ノ画』やTシャツなどを通販で購入してくださったりと、とても懇意にしてくださっている。
ただ、その一方で、矢口さん自身も、noteなどでさまざまな活動を発信しており、どんな方なのかずっと気になっていた。
まず、ざっとnoteを見渡すだけでも、そこには詩ばかりではなく、音楽や小説、映像、絵(絵画教室に通われているとか)、そして、宗教学と、本当に多岐に渡るものが目に入る。
ただ、読んだり見たり聴いたりしていて思ったことは、矢口さんはそれぞれ別のことをしているつもりはないのだろうなということだ。ぼくも詩作だけでなく写真を撮ったり、映像(最近始めた)を作ってみたりするが、あまり詩作と違う脳を使っている感じはしていない。同じような意識で取り組んでいる。
そうぼくが思うからこそ、矢口さんの活動をそのように捉えるのかもしれないが、ご本人も上記の記事で岡野守也さんの「文化現象としての仏教の同心円図」(『唯識と論理療法─仏教と心理療法・その統合と実践』より)を引き、次のように述べておられる。
詩は上の図の全てを包括する、というのが僕の主張だ。
呪詛を詩にすることもできれば、神々への讃歌・物語詩というジャンルもある。論理的・哲学的な詩を書く近代の思想家もいるし、特に現代では個人の魂の救済のために詩が書かれもする。
その通りだと思う。前にも記事で「詩」の懐の大きさについて話したが、「詩」はすべてを包括するような大きさがある。
矢口さんの詩との出会いは、学生時代に作曲するイメージを求めて、宮澤賢治に出会ったことがきっかけだとお話しされていたが、それから歌詞を書き、詩を書きというところに辿き、やがて「詩+音楽」で朗読をされたり、「詩+映像」で動画作品を作られたり、というところを見ると、「詩」が中心になっていったのだなあと思わされる。
この「詩+映像」の作品について、どのような考えをお持ちなのかうかがったところでは、やはりあくまで「詩」がメインなので「音楽」になったり、「映像」になったりしないようなギリギリのラインを意識されているそうだった。
ぼくも「詩2.0」などと、次の「詩」の可能性を考えたりしたこともあったので、「詩+映像」の試みに非常に共感したのだった。そして、それら「映像」や「音楽」を「エフェクト」として捉えているあたりも、「詩性」の最大化を狙ってのことなのだと思う。
だから、おそらく矢口さんが取り組んでおられるさまざまな活動も「詩性」のようなもの、それは「霊性」と言ってもいいのかもしれないけれど、そういうものの探究の過程なのかもしれない。
このように多岐に渡る藝術ジャンルを横断的に取り組める人は少ない。そういう意味でも、それぞれが響き合って、最大になった「詩性」の爆発のようなものを見てみたいという期待がぼくのなかである。
当然、矢口さんの意図するところとは異なるかもしれないが、とても可能性に満ちた方だとお話ししていて感じられた。
今回も詩の朗読をお願いしたところ、ぼくは「泣きつづけよう」という詩を読んでほしいと思っていたら、ちょうど矢口さんもその詩を手元にご用意くださっていたようで、嬉しかった。
この詩は矢口さんの朗読がnoteにあがっている。記事と詩を引用させていただく。
「泣きつづけよう」
(詩集『巡る風花』より)
何事もなく 得ているようで
知らないうちに 失っていく
ジブンという名の 幻想は
手があるように 見えているだけ
得ていくことと 失うことは
ひとつ屋根の下で ともに暮らす
呼吸と心拍とが ひしめいて
胸の居場所を 取り合うように
ーー欠けたもので できている としたら
待っていたのは 立ち止まるとき
望んでいたのは 下を向くとき
目にとまるのは 手のひらのあと
大地についた たくさんのあと
歩いてきたのは なみだの先だ
なみだの先は なみだの手前
そうだ 歩み進めることは
きっと 失くした人や記憶と
ともに 泣き続けていくことだ
泣きつづけよう つたうのは夜
泣きつづけよう つなぐのは僕
ここには等身大の矢口さんがいつつも、そこにはぼく自身の姿も重なってくる。矢口さんの語る声を聴きながら、これまでの来歴を思いつつ、自らのことも思った。「そうだ 歩み進めることは/きっと 失くした人や記憶と/ともに 泣き続けていくことだ」と、この語り手は気づくのだが、この「歩み進める」ということの深さにも、この語り手は気づいている。それが、
目にとまるのは 手のひらのあと
大地についた たくさんのあと
だと思う。人は、歩いていくが、その地に残るのはなにも「足跡」だけではない。這いずっていく、あるいは打ちひしがれて地に手をつくことだってある。そういう、必死に歩いてきた「手のひらのあと」に気づいていくことが、なんとも言えない感動と共感を生む。
「泣きつづけよう」という呼びかけも、失った悲しみに満ちつつ、どこか前向きなのも、そうやって這ってでも歩いてきた「ジブン」をたしかなものとして感じているのだろう。
また、矢口さんがさまざまな取り組みをされるのも、あくまで「手」によるものだ。そこには、どうしても「足跡」とは言えない、「敬意」のようなものさえぼくは感じてしまう。「手のひらのあと」。それが、ぼくのなかでとても印象深い。
ぜひ、みなさんも矢口さんの「声」で、この詩を聴いてみていただきたい。
この詩は、矢口さんの詩集『青い風花』(幻冬舎)に収録されているという。詩集作成についても根ほり葉ほりうかがってしまったが、快くお答えくださって本当にありがたかった。ぼくも、詩集を作りたいと思っているが、なかなかうまくまとまってくれないところがある。
今回の話で何か、前に進む力をいただくことができた。
今後も、お互いの活動を見守りつつ、励みにしてがんばっていきたいと思いました。矢口れんとさん、詩作からプライベートまで根掘り葉掘りうかがったにもかかわらず、お答えくださり、どうもありがとうございました。ぜひまたコロナ後、カレーを食べに行きましょう。
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さて、次回のお話しするお相手はまだ決まっておりません。仕事が再開するので、難しいところはありますが、ぜひ、お話ししてくださる方を募集いたしております。詩や、創作などのお話ができるとありがたいです。ご興味のある方は、ぜひコメントやTwitterのDMにてお声がけくださるとありがたいです。
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