エイジ/重松清(その1)
これは私が初めて読んだ重松さんの作品だ。
文庫↑Kindle↓
中学二年生の、エイジと同い年の頃に読んだ記憶がある。どうして手に取ったかはあまり覚えていないが、山本周五郎賞を取ったとかなんとかで平積みにされていたのかな、と思う。
そこから私の重松清崇拝が始まることになるとはこの時まだ知らない。
その前の私は小4で出会った星新一のショートショートにどハマりしており、習い事が忙しい中でも授業中に未来いそっぷを読みふけるような星新一ホリックだった。
その時既に好きな出版社は新潮社、もしくはミヒャエル・エンデ大先生の本をハードカバーで出している岩波書店、と出版社ごとに贔屓をするような子どもだった。
バスケットボールや跳び箱が描かれている、体育館の倉庫のような表紙に惹かれて手に取ってみても、背表紙の解説を読むとそんなに面白そうじゃないじゃん、同い年の子が通り魔犯だなんて、しかもフィクションだなんて、つまらなさすぎる。と感じたことはよく覚えている。
それでも何故かページをめくった。出だしはクラス委員か何かの投開票場面。そんなに魅力的な場面じゃないなあと思っていたのもつかの間。「正」の字が増えていく描写に感心しているとまたやられた。梅雨が長くて夏が短かったことを野球で例えている。野球のことはさっぱりわからなかったけど、描き方や言葉の選び方、措辞なんかがほんとうに私にはぴったりだった。
そして隣のページではまたやられた。これはほんとうに中学二年生の私からすると致命傷を負うほどのノックアウトだった。
それは担任の先生の「中だるみの時期だから気をつけろ、でも紐でもなんでも、たるんでるうちは切れない」といった趣旨の言葉だった。
なるほどなあ。
自分がキレてしまうことに異常なまでの不安を覚えていた私にとって、とても欲しい言葉だったし、例えだったし、大げさに聞こえるかもしれないが、諭しだった。
ここまででまだ4ページである。
一緒に本屋にきていた父親に「これにする」と言い渡し買わせた記憶がある。
父親は「重松さんなんか読むんか、はー」と、私がこの本を選んだことを意外そうにしていたが、まあ賞も取ってるし教育や社会問題についてたくさん書いている、既に知名度はそこそこ高い作家さんだということも相まって文句ひとつ言わずにほいほいと買い与えてくれた。
この時もまだ、私がこれほどまでに重松清信者になるとは予感さえなかった。
導入だけで長くなってしまった。
反省
でも私の溢れ出る作家さん愛を受け取って欲しいいいいいい!