小さき者へ/重松清(その2)


ひとつめの短編、海まで、から始めます。
要約したり、話の構成を書いたりする元気はないので、好きなところだけあげていきます。

小5のカズキと5歳のミツルは対照的。
カズキは良くいえば寡黙、悪くいえば臆病。
ミツルは良くいえば物怖じしない、悪くいえば傲慢。

私も普段は感情を表に出せなくて、いきなり出してコントロール出来なくなって、という自分でも手に負えない厄介な子どもだったのでカズキの気持ちは良くわかるというか、カズキに自分を投影させて読むことが多かった。
ただ、カズキはほんとうに優しい子どもで、おばあちゃんにどれだけ素っ気なくされても、おばあちゃんが大好きで、たくさん気にかけて、でも優しく声をかけたくてもできない、そんな、とっても優しくて臆病な子ども。
それに比べて私は。他人に全然優しくできないし、優しくしようと思えることも少ない。自分は助けてもらいたいのに他人を助けることはほとんど考えない。傲慢で、わがままで。まるでカズキとミツルの損な部分だけ寄せ集めたみたいで。

でも今回再読して思ったのは、私はおばあちゃんみたいだ、ということ。
おばあちゃんは寂しくて寂しくてたまらない。わざとなのか、無意識なのかはわからないがイジイジしたカズキに意地悪をしてしまう。でも、ほんとうは自分自身とってもイジイジしている。せっかく息子が墓参りに連れて行ってくれると言ってもつべこべ言い始める。体のあちこちが痛くて、でも言っても仕方が無いし、あまり言い出せなくて、結局溢れかえってしまう。

私のことなのかな、って。
結局寂しさから色んな負の感情が生まれている気がするし、寂しいって感情は有害だよなあと思ったり、私も寂しくなくなれば人に優しくできるようになるかな、なんて。
寂しさがこれっぽっちもなくなっちゃったら、それはそれで私じゃない気もするし、生きてるって実感できない気もするけど。

一年と少し前、毎日のように「優しくなりたい」と言いながら泣いていた。笑いながら、泣いていた。
それから、少しは優しくなれたのかな。
優しくなりたいよ。

それにしても、半世紀ほど年齢が離れているであろうおばあちゃんに感情移入できるなんて、そんな風におばあちゃんを描写できるなんて、やっぱり重松さんは感情を抽出して模写する天才なんだと思います。
私はこの人の本から、人間の感情をたくさんたくさん知ったと思います。元来、とっても感情の表現が下手というか、感情を持っていなかった私が、今、泣いたり笑ったりできるのは、間違いなく作家重松清のおかげです。









風邪と台風で3日間引きこもってますが、なんにもしたくないという気持ちが強まっただけでした。
でもお部屋のお掃除したし、お出汁とったりしたし、及第点くらいはくれると嬉しいです。

ひとりでしゃぼん玉しました。
写真は難しいですね。

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