声をあげないと伝わらない
こんなわたしでも、普通の枠からはみ出しちゃいけない!って必死になってたんですよ、わりと最近まで。
とくに小学生の頃なんて。
一所懸命まわりの真似して話し方とか一人称とか、コンビニ人間みたいにまわりの観察してコピーしてた。
コンビニ人間はものすごい小説だと思います。だって、多くの人が「これはわたしの、わたしだけのことだ……!」って思うもん。
それだけがんばって、「みんな」と「同じ」であろうとしてるのに。
なのに母親がどこか普通じゃない。しんどい。
普通じゃないことは隠さなきゃって思ってたのに普通に普通じゃない振る舞いをしてる母、意味わかんない恥ずかしい、って思ってた。
わたしは必死に普通をやろうとしてるのに、やめてよって。
それで、親の普通じゃない部分も普通に見えるように、わたしはどう振る舞えばいいのかなって考えてた。
それはそれで当時のわたしの精一杯だったから仕方ないんだけど。
普通じゃないことを受け入れてさらけ出せたら、楽になってたかな。
今のわたしみたいに、出来ないことは出来ない!無理!って言えて、逃げ出せていたら。
「わたしの親は普通じゃないんです」
それだけのことが言えていたら、気持ちも楽になっただろうし、ほんとうに普通じゃないなと思ったまわりの大人が「それは大変だ」って手を差し伸べてくれたかもしれない。
どこまでがただの「ちょっと変」でどこからが「異常」なのかも、見極められるようになっていたかもしれない。
自分の「やばいかな?」を信じられないなんて、そんな面倒なことがこんなに頻発しなかったかもしれない。
「やばいかも、でもわたし自身がやばいからわたしのやばいの定義でやばいと思ってたらこの世の全てがやばくなっちゃうよ」なんて。
無理に隠してしんどくなって、そうまでして普通を演じる必要なんて、ないよ。
今はそう考えられる。
わたしは普通だけどさ、凡人じゃないなんて言わないし言えないけどさ。
そんなようなことを、小学生のnoteを読んで感じた(莉亜さん、勝手にリンク貼ってごめんなさいね)。
悔しいけど、すごい。非凡だなあと思った。
普通じゃないとか、しんどいとか、嫌だとか、認めないとなにもはじまらない。
言えば自分も周りも楽になるのに。
隠蔽体質にも通づるものがありますねえ。
「女医が休む!無理!」って言ってくれれば女医さんたちの家族も含めて、社会全体で、みんなで対策考えられたかもしれないのにねえ。
ということで、
「バスタブないの無理!!!」
だけど仕事とお部屋は決まったっぽいよ!やったー!!
ビザ申請はまだだけど。だる
また詳しいことはのちのち。
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